全斗煥は以前の李承晩や朴正熙のように憲法を改正して大統領に再任することはないと宣言してきた。しかし、彼は大統領任期満了後に院政を敷こうと考えていたため、大統領直接選挙制には関心がなく、議院内閣制を主張した。が、野党が大統領直接選挙を譲らないと知るや、4・13護憲措置を発表し、国民の怒りを買った。一方で、学生運動家の拷問致死事件が発覚し、国民の怒りは頂点に達した。
1987年6月、学生による反政府デモは日増しに高まりを見せていった。そうして、大学生のデモに高校生、サラリーマンも合流し、デモ参加者は100万人に達した。韓国の反政府運動を担ったのは、伝統的に学生であったが、6月民衆抗争と呼ばれる反政府運動の担い手は、学生だけではなく、皮肉にも軍政が育てた新中間層であった。
この時、韓国はソウルオリンピックの開催を1年後に控えていた。学生デモによりソウルでオリンピックが開けなくなった場合、ロサンゼルスで代わりに開かれるとの声明が出された。高度経済成長の成果を世界に誇示したい軍政としては、オリンピックが吹き飛ぶ事態だけは何とか避けたかった。
そこで、全斗煥の後継指名を受けた盧泰愚が、民主化宣言を発表したわけである。民主化宣言で、激しいデモは取り敢えず終息した。そうして、学生運動の中に、主体思想を公然と掲げる者(主体思想派=主思派)も現れた。 民主化宣言後に、野党勢力を率いた金泳三と金大中の間で対立が表面化、金大中が平和民主党を創党して大統領選挙に出馬した。そのため、反軍政票が金泳三と金大中で分裂、全斗煥の後継者である盧泰愚が当選する結果となった。しかし、翌年4月の13代国会議員選挙で盧泰愚大統領与党の民主正義党は過半数を割り込む結果となった。そのため、1990年2月に金泳三の統一民主党や金鍾泌の新民主共和党と合同して民主自由党を発足、1992年の大統領選挙で金泳三を当選させる。いわば職業政治家と軍部との連立政権であった。そして1997年の大統領選挙では、金大中が金鍾泌との連合(JP連合)の末、当選を果たした。 6月民衆抗争を牽引した元学生運動家たちは、386世代と呼ばれ、国会で若手議員として活躍している。 2004年の国会議員選挙では、第一共和国の進歩党以来の革新政党である民主労働党が9議席を獲得し、国会第三党となった。
民主化宣言の定着
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 立候補には統体代議員の推薦が必要であったが、代議員はほぼ全員が政府支持派で占められており、野党側の立候補は事実上不可能となっていた。
^ 統体代議員による間接選挙から大統領選挙人団によるものに改められ、野党候補の立候補も認められたが、与党側に有利な仕組みとなっていた。
^ 国会議員の選挙制度も、地域区(中選挙区)で第1党となった政党に全国区議席の3分の2を自動的に配分する仕組みになっており、与党が絶対多数を維持できるようになっていた。
出典
参考文献
金容権編著『朝鮮・韓国近現代史事典』(日本評論社)
⇒「1987年の韓国」、アジア経済研究所編「アジア動向年報データベース」
関連項目
民主憲法争取国民運動本部?在野勢力や野党勢力によって結成された団体で、6月民衆抗争において指導的役割を果した。
大韓民国の政治
1987、ある闘いの真実
スノードロップ (テレビドラマ)
光州事件
6月民主抗争
朴鍾哲
李韓烈
外部リンク
KBS9時ニュース(韓国語)(1987年6月29日)
MBCニュースデスク
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