民主党_(日本_1998-2016)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

旧民主党の枝野幸男、民政党の岡田克也、新党友愛の川端達夫らが基本理念をまとめる協議にあたり、合意に至った[25]。1998年4月27日、新たに「民主党」が誕生。手続上は他政党が解散し、民主党に合流した形となった。

新民主党は、「行政改革」「地方分権」「政権交代」を掲げ、自民党に代わる政権政党となること、二大政党時代を作り上げることを目指すとした。「生活者」「納税者」「消費者」の代表という立ち位置、「市場万能主義」と「福祉至上主義」の対立概念の否定などを結党時の基本理念に掲げていた。

この年の第18回参議院議員通常選挙では、大型公共事業の抜本的見直しや地方分権の推進などを訴え、10議席増の27議席を獲得した。しかし、当時衆議院で単独過半数の回復に成功していた自民党と比して、この頃の民主党を二大政党の一角と見る動きはまだ少なく、あくまでも最大野党という位置付けが一般的であった。
党勢拡大

1999年9月、代表選挙で菅を破った鳩山由紀夫が代表に就任。

2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では、定数削減があったにもかかわらず改選前の95議席を大きく上回る127議席を獲得、二大政党時代の到来を宣言した。とはいえ、自公保政権は引き続き絶対安定多数を維持しており、与党を過半数割れに追い込むという狙いは達せられなかった。この選挙では、現行消費税の年金目的税化、扶養控除の廃止と児童手当の金額倍増などが公約に盛り込まれた。

2001年4月、小泉内閣が公共事業改革や分権改革を推し進める聖域なき構造改革を掲げて発足。これらの改革は民主党の政策と共通するものを含んでいたため、鳩山は小泉に対し「協力することもやぶさかではない」という姿勢も見せ始めるようになる[26]。以後、小沢が代表に就任する2006年までは、改革の速度や手法を競う「対案路線」で与党と対峙することになる。

同年7月の第19回参院選では小泉旋風の前に伸び悩んだものの、4議席増の26議席獲得し、引き続き党勢を拡大させた。選挙公約には、道路特定財源の一般財源化、天下り禁止法の制定、全てのダム建設の一時凍結などが新たに盛り込まれた。

2002年9月に鳩山は代表に再選されたが、これに関連して中野寛成を幹事長に起用する論功行賞人事が党内の求心力の低下を招き、自由党との統一会派構想の責任を取る形で12月には辞任に追い込まれた。同月、岡田を破った菅が代表に返り咲く。
二大政党化

2003年9月、来る総選挙を前に執行部が自由党との合併に踏み切ることを正式に決断する。枝野ら強硬に反対を唱える声もあったものの、役員・要綱・党名を据え置くという民主党による事実上の吸収合併という形で決着を見せた。この民由合併により民主党は両院合わせて204人(衆院137・参院67)を擁するまでに党勢を拡大させた。

同年11月、日本初のマニフェスト選挙となった第43回総選挙では、明確に「政権交代」を打ち出し、改選前を40議席上回る177議席を獲得、大きく躍進する。比例区の得票数では自民党を上回った。高速道路の原則無料化、年金制度の一元化、衆議院の定数80削減などがこの選挙から新たに政権公約に加えられた。

2004年、年金制度改革を巡るいわゆる「年金国会」において菅の納付記録に未納期間があることが判明し、代表辞任へと追い込まれた(後に社会保険庁職員のミスよるものであったことが明らかとなり、厚生労働省が謝罪した)菅の後継にいったんは小沢一郎が内定したが、小沢にも年金未納が発覚し、出馬辞退に追い込まれた。

同年5月、新代表に若手の筆頭格であった岡田克也を無投票で選出。間を置かず7月の第20回参院選を迎えた。発足間もない新体制に一部不安視する声もあったが、50議席を獲得し、国政選挙において初めて自民党(49議席)に勝利を収めた。

この時期から政権選択選挙という言葉が急速に現実味を帯び始めるようになる。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキニュースに関連記事があります。

2005年衆院選・公約比較?年金制度
ウィキニュースに関連記事があります。

第44回衆議院議員選挙 結果
ウィキニュースに関連記事があります。

民主党、2票差で新代表に前原氏を選出
ウィキニュースに関連記事があります。

民主党執行部総退陣、メール問題で

2005年8月、首相小泉純一郎郵政民営化の是非を問うとして衆議院を解散(郵政解散)。自民党は民営化に反対したいわゆる造反議員との分裂選挙に突入した。選挙戦の序盤は「漁夫の利」などとして民主党に楽観的な論評も飛び交い、政権交代を確実視して伝える一部海外メディアもあった。

郵政民営化の是非を争点に選挙戦を展開した与党に対し、民主党は郵貯・簡保の徹底的な縮小と郵便事業への民間事業者参入促進など、2003年以来党が掲げてきた改革案で応えた。また、郵政問題よりも重要な争点として、利益誘導型政治・官僚支配からの脱却、公務員人件費の2割削減、18兆円に及ぶ税源の地方への委譲、大型公共事業の見直しなどを改めて提示し、「徹底した無駄削減」と「コンクリートからヒトへ」による大胆な社会構造の変革を訴えた。しかし、「造反議員」と「刺客候補」の対決構図が連日のように報道されていく中で政策論争は次第に世論の関心を失い、また民主党自体も郵政民営化そのものには容認する意向を示していたため自民党との大きな差異を見つけられず、小泉劇場の前に埋没。結局、改選前を大きく下回る113議席に終わった。岡田は即日代表辞任の意向を表明した。

党代表後継には菅直人と前原誠司が名乗りを上げた。当初は菅有利と見られていたが、最終演説で投票議員の心を掴んだ前原が僅か2票差で選出された。前原は、「脱労組」「世代交代」を打ち出し、事実上党の右傾化路線に着手。当時43歳の前原は清新なイメージを与え、耐震偽装問題馬淵澄夫による証人喚問が世論の喝采を浴びるなど、新生民主党は順調な出直しを図ったかに見えた。

しかし、2006年2月に堀江メール問題が発生すると、一転して民主党は逆風にさらされる事になる。情報の真偽を巡って執行部の対応が後手に回ったことも問題を長引かせる要因となり、翌3月にはついに前原が辞任に追い込まれた。民主党は世論から強い批判を浴び、党の再生が模索される事となった。
トロイカ体制ウィキニュースに関連記事があります。

民主党代表に小沢一郎氏をはじめて選出

ウィキニュースに関連記事があります。

参議院選挙、自民党惨敗 民主党が第1党に
ウィキニュースに関連記事があります。

民主・小沢代表の公設秘書を西松建設の政治献金に絡み逮捕
ウィキニュースに関連記事があります。

東京都議選 民主党が第1党に 自民・公明過半数割れ

2006年4月、小沢一郎が菅を破り、新代表に就任。小沢は菅を代表代行に指名し、幹事長を務める鳩山と共に「トロイカ体制」と言われる挙党一致体制を敷いた。

小沢体制ではまず小泉構造改革を否定するという大きな政策的転換が図られた。それまで民主党の方針であった経済成長路線は影を潜め、子ども手当の導入、農家への戸別所得補償といった多額の財政出動を伴う政策が打ち出された。更に2005年総選挙時に掲げていた年金目的消費税を凍結するなど、財源に関して甘い見通し[27]が立てられたのもこの時期である。

地方組織が磐石ではない民主党にあって、小沢は各議員・候補に徹底した地元活動を求めるなど、地盤の強化にも力を注いだ。2007年4月の第16回統一地方選挙を勝利し、7月の第21回参議院議員通常選挙でも60議席獲得と大勝。ついに参議院で与野党を逆転させた。

小沢は参議院での多数を武器に与党に激しく抵抗する「対立軸路線」を敷き、政権を追い込む戦術を選択した。一方で11月、小沢はねじれ国会の運営に行き詰った福田康夫大連立構想を提案。しかし、予てから「健全な二大政党制」を望んでいた民主党役員会では小沢を除く全ての議員がこれに反対、世論も同様の反応を示した。その後、民主党は2008年のガソリン国会などで抵抗を続け、ねじれ国会の中で有利に戦いを進めた。この頃には首都圏の政党支持率では自民党を圧倒するようになった。

ところが2009年3月、西松献金問題で小沢の公設第一秘書逮捕起訴されると、支持率は軒並み低下。迫る総選挙への影響を避けるためとして5月、小沢は代表を辞任した。

次期総理候補を決める代表選挙として大きな注目を集める中、小沢に近い議員らが推す鳩山と岡田が争った。消費税率見直しは4年間議論もしないとした鳩山と、議論は行うべきだとした岡田であったが、参院票の取り込みで優勢に立った鳩山が接戦を制した。初めて表面化した親小沢と非小沢との対立構図であったが、選挙後は岡田が幹事長職を引き受け、選挙後の融和を図れた。小沢の献金問題で一時的に落ち込んでいた政党支持率は献金問題の表面化前よりも上昇し、自民党に拮抗する調査も出始めるようになった。
政権交代へ第45回衆議院議員総選挙の開票速報を聞く民主党幹部ら

7月翌13日、首相麻生太郎が衆議院を解散する意向を表明。この月、NHKの全国世論調査で初めて民主党が政党支持率で自民党を逆転した。

2009年7月21日、衆議院が解散され、事実上の任期満了選挙に突入する。鳩山はこの総選挙を「政権交代選挙」と銘打ち、連立をみすえる社民党・国民新党と合わせて過半数の議席確保を目指した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:302 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef