民主党(みんしゅとう、英語: The Democratic Party of Japan、略称: DPJ)は、かつて存在した日本の政党。民主中道を基本理念としリベラル政治の実現を理念とする政党だった[1][2][8][9]。
略称は「民主」。2009年8月の第45回衆議院議員総選挙で政権交代を実現し、2010年6月まで社会民主党と国民新党とともに民社国連立政権および国民新党とともに民国連立政権である鳩山由紀夫内閣を、2012年12月まで民国連立政権である菅直人内閣、野田内閣を形成していた[1][2]。 1998年4月、院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)に参加していた旧民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が合流して結成された。法規上は旧民主党以外が解党して合流したという形をとっているものの、旧民主党の議員もいったん全員離党し再度入党、その他人事や要綱、ロゴなどを一新したこともあって、同じ政党名でありながら旧民主党とは区別して扱うことが慣例になっている。また、結党時には保守中道を掲げる旧民政党系と中道左派を掲げる旧民主党系が対立した結果、党の基本理念を「民主中道」とすることで落ち着いた[9]。 保守・中道右派を自認する自民党に対して、主に海外メディアからはリベラル・中道左派の政党と位置付けられた[10][20]。しかし結党・合併の経緯により、自民党などの流れを汲む保守本流・保守中道や旧民社党系の反共色の強い議員も一定数存在し[11]、左派政党と位置付けられることに否定的な党員・支持者も存在した。なお、2001年に党内左派より「中道左派という概念から社会主義インターナショナルに加盟すべき」という提案がなされたが、当時の代表・鳩山は「左派というのは民主党のコンセンサスではない」と反対し、頓挫した[21]。 2003年9月に自由党が合流(民由合併)。2007年の参議院議員通常選挙で勝利し、2009年の衆院議員総選挙でも大勝して政権を獲得、社民党・国民新党とともに連立与党を形成した。しかし2012年の総選挙で大敗し、再び野党となった。 再び野党に転落した民主党の支持率は低迷し、2016年の維新の党との合流にあたり党名を民進党に改称し、これを以て民主党は結党以来18年の歴史に幕を下ろすことになった。これに伴い、旧民主党から続いた「民主党」の党名も20年で消滅した。しかしながら民進党に改名後も支持率は低迷し、その後民進党は2017年に希望の党との合流騒動を経て、旧・立憲民主党と旧・国民民主党に分裂する。2020年には旧・国民民主党は旧・立憲民主党などと共に新・立憲民主党を結成し、非合流組は新・国民民主党を結成した[22]。 かつて民主党を構成していた党員や支持母体の多くは立憲民主党に移ったため、2023年現在は立憲民主党が民主党の流れを汲む政党と見ることが出来る。 1980年代の後半からリクルート事件などを契機として政治とカネのあり方が問われ始めると、小沢一郎・後藤田正晴らを中心に自民党内の一部で小選挙区制と政党交付金の導入を主張する政治改革の機運が高まっていった。これには政権交代可能な二大政党制を実現させ、中選挙区制によって馴れ合いに陥っていた(小沢談)55年体制を打破するという目的があった[23]。 小選挙区制への移行は短期的には最大政党の自民党に有利なものであったため、野党は一斉にこれに反発した。一方で自民党内でも、将来的に政権から転落する可能性が高まることや特定団体からの組織支援効果が薄まることなどから反対論が相次ぎ、第2次海部内閣では政治改革四法は廃案に追い込まれた。 1993年、宮澤内閣でも法案が否決されるに至って党内の対立は決定的となり、小沢・羽田孜・岡田克也ら改革推進派は内閣不信任案に賛成票を投じて自民党を離党し、新生党を結成した。首相の宮澤喜一は衆議院を解散して第40回衆議院議員総選挙に踏み切るも、自民党は議席数では第一党(223議席)となったが、過半数割れとなり政権から転落。この選挙では枝野幸男・前原誠司・野田佳彦・小沢鋭仁ら、後に民主党の主要メンバーとなる議員が政治改革を訴えて日本新党から多数初当選した。 この選挙の結果、小沢・羽田らは、社会党、公明党、日本新党などの8党派連立による非自民・非共産連立政権の細川内閣を樹立、政治改革四法を成立させた。しかし、その後は政党間による対立が表面化し細川内閣の次の羽田内閣で社会党が政権離脱、約1年でこの連立政権は崩壊した。 また、不信任案には反対した鳩山由紀夫らも新党さきがけを結成し、細川内閣に加わった。
概説
歴史
前史1990年代の政党の離合集散
非自民連立政権