第二次世界大戦後にはソ連の不穏な動き・北朝鮮による韓国の侵略などで反共主義が高まり、共和党のマッカーシー上院議員らによる赤狩りなどの風潮の中、民主党政権は共産主義と結びつけられて信用を失墜していった[61]。1952年アメリカ合衆国大統領選挙では民主党人気の凋落と、共和党が当時NATO司令官だったドワイト・アイゼンハワーの担ぎ出しに成功したことで20年ぶりに共和党に政権を奪われた[62]。初のカトリック大統領で暗殺により神話化したジョン・F・ケネディ
反共主義の高まりの中で民主党の保守化も強まったが、1960年アメリカ合衆国大統領選挙では「ニュー・フロンティア」をスローガンにした党候補ジョン・F・ケネディを、アメリカ史上初のカトリック(非ワスプ)、また初の20世紀生まれの大統領として当選させ、若々しさを期待させた[63]。同時にケネディは南部民主党をつなぎとめるため、保守系議員の信頼が高いリンドン・ジョンソンを副大統領とした[64]。ケネディは黒人の公民権運動の高まりで揺れる中の1963年11月22日にテキサス州ダラスにおいて暗殺された。その悲劇的な最期は彼を神話化すると共にそれ以降のアメリカ社会に訪れた対立と混乱をいっそう際立たせる効果をもたらした[65]。ケネディ暗殺後には副大統領ジョンソンが大統領に昇格したが、ベトナム戦争への本格介入と長期化によって党内に著しい分裂が生じた[55]。
1968年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党のリチャード・ニクソンに政権を奪われた。ニクソンは黒人公民権政策に否定的な態度を取ることによって南部の支持を獲得する「南部戦略」をとって民主党の地盤だった南部への進出を進めた[66]。1972年アメリカ合衆国大統領選挙でもニクソンに敗北したが、ウォーターゲート事件でニクソンが辞職した後の1976年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党の現職ジェラルド・R・フォードに党の大統領候補であるジミー・カーターが勝利し、8年ぶりの民主党政権が発足した。しかし、カーター政権では財政赤字が膨らんだ上にイラン革命の石油危機によるスタグフレーションなど経済危機が深刻化して人気は急落し、「小さな政府」を掲げるロナルド・レーガンら共和党右派が支持を集めるようになり、1980年アメリカ合衆国大統領選挙では現職のカーター大統領がレーガンに敗北した[67]。
その後はロナルド・レーガン政権の2期8年、ジョージ・H・W・ブッシュ政権の1期4年の12年に渡る長期の共和党政権下で民主党は野党に甘んじた[55]。保守色の強いレーガンの時代に共和党の南部進出はより強固となり、1980年と1984年の大統領選挙では「レーガン・デモクラット
(英語版)」と呼ばれる南部民主党員のレーガン支持現象が発生している[68]。1984年アメリカ合衆国大統領選挙では、女性初の副大統領候補ジェラルディン・フェラーロを指名した[69]。ニューデモクラット(英語版)の中心人物であり、民主党の左翼色を弱めて中道政党化を推進したビル・クリントンまた、1980年代には高いレーガン人気のもとで、民主党内でもレーガンの「小さな政府」論に影響を受けてニューディール・リベラリズムから脱却しようという機運が若い民主党員の間で起こった。彼らは恵まれない有権者への配慮という伝統的な党の立場に軸足を残すことでレーガンと差別化しつつ、従来の党主流派リベラルを労働組合の傀儡と批判した。この勢力はやがてニューデモクラット(英語版)と呼ばれるようになり、アーカンソー州知事ビル・クリントンがその代表格だった[70]。1992年アメリカ合衆国大統領選挙では南部や中道の票を確保できる候補と期待されたクリントンが党大統領候補となり、湾岸戦争の勝利で有利とみられていた現職父ブッシュの再選を阻止して当選を果たし、12年ぶりに民主党政権を誕生させた[71]。クリントンはこれまでの民主党大統領より経済問題で共和党保守派に近い立場だったが、社会・文化問題はリベラルな立場だったので結局二大政党の対立は緩和されず、目玉の医療保険改革も共和党の反対で挫折し、支持率は低下、1994年の中間選挙では上下両院とも共和党に過半数を奪われた[72]。しかしこの選挙で党内リベラル派が退潮したのでクリントンは本来共和党保守派の争点だった社会福祉改革、財政均衡、犯罪防止強化、家族重視の価値観、不要な規制撤廃などを政策アジェンダに取り込み、民主党に付きまとう「増税と歳出増の党」というイメージの払拭を図った。加えて冷戦終了後の軍縮による財政赤字の減少・オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の優れた演説・好景気などに後押しされて支持率が再上昇し、1996年アメリカ合衆国大統領選挙で再選された[73]。2期目の任期をクリントンはうまく乗り切り、1998年には連邦財政の黒字を叩き出し、増税と社会政策への野放図な支出という民主党のイメージを一変させ、民主党の中道政党化を完成させた[74]。
2000年アメリカ合衆国大統領選挙ではクリントン政権のアル・ゴア副大統領が党の大統領候補として出馬したが、クリントン政権末期の不倫スキャンダルが尾を引いたことや左派の第3候補であるラルフ・ネーダーの出馬で票を削られたことで、共和党の大統領候補であるジョージ・W・ブッシュに得票数ではわずかに上回るも獲得選挙人数で敗北して落選となり、政権を失った[75]。