民主党_(アメリカ)
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第三政党制第四政党制期(1860年から1932年)にはグロバー・クリーブランドウッドロウ・ウィルソンのそれぞれ2期16年しか大統領を輩出できず、いずれも共和党の内紛に負うところが大きかった[40]。19世紀前半が農民を支持基盤とし、土地利益の促進を目指した民主党の時代とするなら、19世紀後半は産業資本とそれと利害関係を持つ西部農民を支持基盤として急激な工業化を図る共和党の時代だった[49]

しかし、この間も民主党は反中央集権と個人的自由を打ち出すことによって共和党政権に取り残された不満層の受け皿として存続した[50]。南北戦争の敗地にされ、共和党政権に怨念を持つ南部の人々、北部の都市部で低賃金に苦しむ移民(特にカトリック)、資本主義の発展で没落していく西部の中小農民などがこの時期の民主党支持層だった[51]。この時期、北部の工業都市は外国(特に先進資本主義国イギリス)の工業から国内市場を防衛する手段として保護関税を求めていたので、共和党政権がそれを推進したのに対し[52]、南部の農村部は低関税ないし自由貿易を求めたため[53]、民主党の候補は関税引き下げを選挙で訴えた[54]

共和党が大実業家の利益の代弁者となって政治的腐敗が進行したことで政治刷新を求める運動が高まり、その機運を背景に党は1912年にウィルソンを大統領に当選させることに成功したが、第一次世界大戦後には再び共和党に敗北し、長らく政権の座から遠ざかった[55]民主党の都市化・左傾化を決定づけたフランクリン・ルーズベルト

1920年代になると民主党は都市大衆を基盤とした勢力として本格的に再生されていく。世界大恐慌を背景に党の都市化を完成させたのが1932年に大統領に当選したフランクリン・ルーズベルトと彼のニューディール政策だった[40]。特に第二次ニューディール政策は老齢年金や失業保険などを定めた1935年の社会保障法の制定や高率の累進所得税や法人税の設定など左旋回が顕著であり[56]、これを契機に党は社会的自由主義を推進する政党となった[57][58]。労働者や小農、失業者、移民、黒人などの低所得者層から支持され、この支持層を「ルーズベルト連合」と呼ぶようになり[59]1936年以降の長年にわたる多数党化に成功した[40]。ルーズベルトの登場後、民主党の左傾化は決定的となり、逆に共和党や南部民主党勢力(英語版)はルーズベルトへの対抗から保守化を強めていった[60]
第二次世界大戦終結後

第二次世界大戦後にはソ連の不穏な動き・北朝鮮による韓国の侵略などで反共主義が高まり、共和党のマッカーシー上院議員らによる赤狩りなどの風潮の中、民主党政権は共産主義と結びつけられて信用を失墜していった[61]1952年アメリカ合衆国大統領選挙では民主党人気の凋落と、共和党が当時NATO司令官だったドワイト・アイゼンハワーの担ぎ出しに成功したことで20年ぶりに共和党に政権を奪われた[62]初のカトリック大統領で暗殺により神話化したジョン・F・ケネディ

反共主義の高まりの中で民主党の保守化も強まったが、1960年アメリカ合衆国大統領選挙では「ニュー・フロンティア」をスローガンにした党候補ジョン・F・ケネディを、アメリカ史上初のカトリック(非ワスプ)、また初の20世紀生まれの大統領として当選させ、若々しさを期待させた[63]。同時にケネディは南部民主党をつなぎとめるため、保守系議員の信頼が高いリンドン・ジョンソンを副大統領とした[64]。ケネディは黒人公民権運動の高まりで揺れる中の1963年11月22日テキサス州ダラスにおいて暗殺された。その悲劇的な最期は彼を神話化すると共にそれ以降のアメリカ社会に訪れた対立と混乱をいっそう際立たせる効果をもたらした[65]。ケネディ暗殺後には副大統領ジョンソンが大統領に昇格したが、ベトナム戦争への本格介入と長期化によって党内に著しい分裂が生じた[55]

1968年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党のリチャード・ニクソンに政権を奪われた。ニクソンは黒人公民権政策に否定的な態度を取ることによって南部の支持を獲得する「南部戦略」をとって民主党の地盤だった南部への進出を進めた[66]1972年アメリカ合衆国大統領選挙でもニクソンに敗北したが、ウォーターゲート事件でニクソンが辞職した後の1976年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党の現職ジェラルド・R・フォードに党の大統領候補であるジミー・カーターが勝利し、8年ぶりの民主党政権が発足した。しかし、カーター政権では財政赤字が膨らんだ上にイラン革命石油危機によるスタグフレーションなど経済危機が深刻化して人気は急落し、「小さな政府」を掲げるロナルド・レーガンら共和党右派が支持を集めるようになり、1980年アメリカ合衆国大統領選挙では現職のカーター大統領がレーガンに敗北した[67]

その後はロナルド・レーガン政権の2期8年、ジョージ・H・W・ブッシュ政権の1期4年の12年に渡る長期の共和党政権下で民主党は野党に甘んじた[55]。保守色の強いレーガンの時代に共和党の南部進出はより強固となり、1980年1984年の大統領選挙では「レーガン・デモクラット(英語版)」と呼ばれる南部民主党員のレーガン支持現象が発生している[68]


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