尾張国春日井郡稲葉村(現在の愛知県尾張旭市稲葉町)の人[8]。新居城[9]主水野良春の4世孫の毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。
12歳の頃より織田氏の家臣・柴田勝家に小姓として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、1万石を与えられるまでになった[10][8]。
17歳の時、天正2年(1574年)の伊勢長島攻めに従軍した。激戦の中、勝家軍の馬印(騎標)が一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入って討死しようとしたが、荘介はこれを諌止して、自分で敵陣に突入して見事に馬印を奪還。これを勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに喜び、精兵を派して家照を救った[11]。
勝家は荘介に偏諱を与え、自身の名前の一字「勝」の字を与えて、字を勝介に[12]、あるいは諱を勝照と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」の字の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも伝わる。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟したが、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて出陣[12]。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼む。しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田修理亮勝家なり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。享年25[12]。
秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、毛受兄弟の首を母に返した。なお毛受の子孫は尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を水野に戻したと云う[12]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}『太平記長嶋合戦』に描かれた免受宗助家照(変名)(歌川芳員作)毛受兄弟の墓(滋賀県長浜市余呉町)
脚注[脚注の使い方]^ a b 『明智軍記』など幾つかの史料で「吉親」とされているものがある。
^ a b 史料によって、同音の漢字が置き換えられることはしばしばみられることで、同じ名前をさす。
^ 『豊鑑』『太閤記』『東春日井郡』などによる。
^ a b 『尾張群書系図部集』による。
^ 子孫として、照清、吉兵衛、喜左衛門、喜三郎、四郎左衛門等としているので、吉兵衛以下は孫より先の代か。
^ 東春日井郡 1923, p.1166[5]
^ 毛受の姓の読み方は「めんじゅ」「めんじゅう」または「めんじょ」「めんじょう」など。『佐久間軍記』では「免受」の漢字が当てられている。
^ a b 岡田 & 野口 1880
^ 在・愛知県尾張旭市城山町長池下。
^ 東春日井郡 1923, p.1165
^ 東春日井郡 1923, pp.1165-1166
^ a b c d 東春日井郡 1923, p.1166
参考文献
東春日井郡 編「国立国会図書館デジタルコレクション 毛受家照」『東春日井郡誌』東春日井郡、1923年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978680/681