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やノートページでの議論にご協力ください。 日本の政治家毛利 元昭もうり もとあきら
毛利元昭(1913年10月、「華族画報」より)
生年月日 (1865-03-04) 1865年3月4日
出生地長門国阿武郡萩 南園御殿
没年月日 (1938-09-24) 1938年9月24日(73歳没)
称号正二位
勲二等旭日重光章
公爵
配偶者毛利富子(徳川慶勝の八女)
毛利美佐子(三条実美の三女)
子女毛利元道(長男)
小早川元治(次男)
親族毛利元徳(父)
毛利五郎(弟)
西園寺八郎(弟)
貴族院議員
選挙区(公爵議員)
在任期間1897年1月21日 - 1938年9月24日
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毛利 元昭(もうり もとあきら、1865年3月4日〈元治2年2月7日〉 - 1938年〈昭和13年〉9月24日)は、日本の華族、政治家。旧長州藩毛利家第29代当主。位階・勲等・爵位は正二位勲二等公爵[1]。号は琢堂[1]。書を能くし、多くの石碑の揮毫を行った。 元治2年(1865年)、長州藩最後の藩主であった毛利広封(後の元徳)の長男[1]として萩の南園御殿に生まれる[2]。幼名は興丸[1]。明治維新後は東京に移住する[2]。父・元徳は維新後、毛利家の拠点を山口から防府三田尻御茶屋に移した。明治3年(1870年)に多々良山周辺を買収してそこに多々良御殿を建設し、完成後に移住した。天皇に拝謁するために上京する時以外は、その生涯のほとんどをこの御殿で過ごしたという[2]。1916年(大正5年)に『実業之日本』がまとめた「華族・富豪の宅地の広さ番付」では、大関の格(2万7000坪)を得ている[3]。 明治30年(1897年)1月21日に家督を相続し[1]、公爵位を襲爵して貴族院公爵議員となる[4]。
生涯
栄典毛利元昭の肖像写真
1897年(明治30年)7月2日 - 従三位[6]
1901年(明治34年)6月21日 - 正三位
1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[7]
1908年(明治41年)6月30日 - 従二位[8]
1911年(明治44年)11月6日 - 勲三等旭日中綬章[9]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[10]
1916年(大正5年)12月26日 - 勲二等旭日重光章[11]
1916年(大正5年)7月10日 - 正二位[12]
1929年(昭和4年)
2月18日 - 紺綬褒章飾版[13]
12月21日 - 紺綬褒章飾版[14]
1931年(昭和6年)10月3日 - 紺綬褒章飾版[15]
系譜
父:毛利元徳(長州藩第14代藩主)
母:安子(長府藩主・毛利元運の次女、毛利敬親の養女)
弟:小早川三郎、小早川四郎、毛利五郎、大村徳敏、西園寺八郎
前妻:富子(富姫、尾張藩主・徳川慶勝の八女、離婚し子爵戸田康泰の後妻となる)
後妻:美佐子(三条実美の三女)
長女:顕子(侯爵醍醐忠重夫人)
次女:茂登子(子爵愛宕通経夫人)
長男:毛利元道(第30代当主、公爵)