毛利元就
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松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう[注釈 5]。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」[14]「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」[15]と養母の杉大方について書き残している[16]

永正8年(1511年)、杉大方は京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらって松寿丸は元服した[17]。そして、多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比[注釈 6]殿と呼ばれるようになった。この頃の元就は、300貫ほどの小さな所領しか持っていなかった。また、毛利家は安芸国の国人領主でしかなく、大大名大内氏に従属する立場でしかなかった。

同年8月、畿内で幕府管領代大内義興に従い、足利義澄細川澄元らと戦う兄・興元をはじめ吉川、高橋、平賀、天野といった安芸北東部の国衆らが、大内側が劣勢な状況を受け無断で帰国、協力して国衆一揆を起こす。しかし、足利義澄が亡くなったことを受け義興が尼子経久と共に義澄派を壊滅させる(船岡山合戦)。義興を裏切った興元は、時流を読み間違えた形となり、さらに尼子氏に内通した宍戸元源が何度も毛利領に攻め込み、優柔不断な興元は徐々に酒に頼り始める。

永正12年(1515年)1月、義興は厳島神主家で内訌が発生したことを受け、安芸国で幾度と発生する混乱を鎮めるために安芸国分郡守護武田元繁を帰国させる。しかし元繁は大内氏に奪われた安芸国主の座の奪還を狙っており、5月に大内氏に反旗を翻して挙兵する。この報せを受けた義興は興元らに対し武田領の有田城の攻撃を命令、興元はこれに従い毛利家や吉川家、高橋家などは再び大内の傘下に戻る。元繁は安芸南西部の重要拠点桜尾城を攻めており、兵の少ない有田城は陥落した。孤立した元繁は密かに安芸国を狙う尼子経久と結ぶと、体勢を立て直した。

翌永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。また、幸松丸の母方の祖父である高橋家当主、高橋久光も後見役となった。こうして元就は僅か20歳で、毛利家の舵取りを任されることになる。
有田中井手の戦い

翌永正14年(1517年)、興元の死による毛利家の異変を知った元繁は反撃を開始し、秋になると挙兵、有田城を攻める。5000を超える兵で進軍する武田軍は有田城を包囲、一気に攻略を狙う。有田城の救援のため、元就は吉川元経高橋弘厚と共に挙兵する。そして10月22日、有田城下において、佐東銀山城主・武田元繁と激突、大勝利を収めてこれを討ち取った(有田中井手の戦い)これが元就の初陣である[18]。武田勢は熊谷元直も戦死し敗走した。元就の存在が初めて京都の大内義興に知られたのはこのときであり、義興から「多治比のこと神妙」という感状を与えられたと、元就自身が記している[18]。この合戦をきっかけに元就の名声が全国に広まっていく。この戦いにより安芸武田氏は衰退を始め、逆に毛利家の躍進が始まっていく。

この戦いの後、武田氏と結ぶ尼子経久の攻勢が激化していくも、永正15年(1518年)に、経久の嫡男尼子政久が反乱の鎮圧時に討ち死にしたため、尼子の勢いも一旦は衰える。その後大内義興が管領代を辞して帰国するが、尼子氏は再度勢力を盛り返して毛利など大内派の国衆を執拗に攻撃する。
鏡山城の戦い

そして永正18年(1521年)2月、尼子の攻撃に耐えきれなくなった高橋久光が尼子に従属。高橋家と婚姻同盟を結ぶ吉川国経、元就も大内を見限り尼子に従属する。尚、この年に高橋久光は亡くなっているため、元就は毛利家の舵取りが容易になる。また、毛利家臣の坂広秀はこの決断に反対し、大永2年(1522年)4月に元就に反抗して反乱を起こすも元就は容赦なくこれを鎮圧。反対派には容赦しないことを明確に示した。

同年11月、大内義興は宮島の厳島神社に入り武田家当主武田光和や厳島神主家当主の座を狙う友田興藤らへの対応を行うが、義興が安芸に入ったことを受け義興に敵対する少弐資元龍造寺家兼の助けを借り挙兵する。これに対応するため義興は周防国に帰国する。同年12月、月山富田城でこの報せを受けた尼子経久は、いよいよ安芸進行を決断する。

翌大永3年(1523年)3月、経久が安芸の国衆に下知を出し、大内氏の安芸支配の拠点である安芸国西条の鏡山城攻略を命令する。しかし、元就は鏡山城ではなく大内氏の厳島支配の拠点桜尾城攻略を命じられる。先の有田中井手の戦いでは敵対していた武田であったが、毛利家の尼子従属により関係が改善していた。一方で、このことは大内氏には知られておらず、元就は簡単に桜尾城に入り込む。元就の策略により、大内軍は兵を分散させざるを得なくなり、武田軍の侵攻で桜尾城は陥落する。これにより厳島神社も武田の手中に入る。

そして5月、ついに経久が満を持して挙兵、一万にものぼる大軍で安芸に向かう。尼子本軍は毛利領に残り、ここで元就と経久が初めて対面する。このとき元就は27歳、経久は66歳であった。その後、毛利家と吉川家で鏡山城を攻める。元就は事前に金明山城の天野興定白山城平賀弘保を味方に付け、鏡山城を包囲する。しかし、鏡山城は堅牢な山城であり、攻略は簡単なものではなかった。毛利軍や吉川軍の劣勢が続き、攻略に難航する。そこで元就は鏡山城代蔵田房信の叔父で実質的な鏡山城代である蔵田直信を蔵田氏の家督を継がせることを条件に調略し、鏡山城を攻略する。(鏡山城の戦い)こうして大内氏の安芸国の二大拠点を一気に攻略し、毛利家中での信望を集めていった。

一方で、元就が従属する尼子経久は、元就に対する警戒心を強める。元就に城攻略の褒美をほとんど渡さず、さらには元就が調略した蔵田直信を処刑するなど、毛利家が力を付けすぎないように操ろうとする。こうして徐々に元就と経久の関係が悪化し始める。

詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われている。
家督相続


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