段祺瑞
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怒った段は天津に移り、安徽督軍張勲らを含む督軍団を煽動して「独立」宣言を発するように仕向け、黎を辞任に追い込もうと画策した。追い込まれた黎は張を招聘・篭絡して段に抵抗しようとする。ところがこの機会を捉えた張は、7月1日に北京に乗り込むと直ちに黎を下野に追い込み、清朝復辟を敢行した(張勲復辟)。これを見た段は直ちに張を反逆者として追討することを宣言し、同月14日、張を駆逐して北京を奪還している。黎の後任の大総統には直隷派の馮国璋が就き、段は国務総理兼陸軍総長として北京政府内で実権を掌握した。8月14日には、対ドイツ宣戦も果たしている[9]
直隷派との抗争

段祺瑞の対独宣戦は、当然ながら日本からの借款を実施するための理由付けであった。上述のとおり西原亀三との交渉を進めるため、すでに1916年末から曹汝霖陸宗輿章宗祥といった旧交通系幹部を日本に派遣している。この交渉の結果、1918年に段祺瑞は日本円にして約1億4500万円の借款を取得することができた。いわゆる西原借款である。この借款を梃子にして、段は御用会派たる安福倶楽部、軍事力としての「参戦軍」を組織している[9]

1917年9月には、孫文(孫中山)らが広州で護法軍政府を組織し、護法運動を開始した。段祺瑞は、護法派の湖南督軍譚延?を罷免、更に自らの腹心である傅良佐を後任に任命することで挑発を仕掛ける。目論見通り譚は反抗したため、これを口実として段は武力による「南北統一」を開始、緒戦は優位に戦いを進めた。しかし馮国璋を筆頭とする直隷派は、段の独断専行的な態度への不満や英米の支援もあって、「和平統一」を唱えて反発を示し始める。この時、護法軍討伐の前線にあった湘南軍正副司令は直隷派の王汝賢・范国璋であり、馮は密かに指示してこの2人を撤兵させてしまう。取り残された傅は陸栄廷率いる旧広西派に敗退、この責任を取る形で、段は11月16日に国務総理兼陸軍総長の辞任に追い込まれた[10]

一時劣勢となった段祺瑞だったが、腹心の徐樹錚が謀略を巡らすことで馮国璋への反撃を開始する。徐はまず直隷派の中で段と比較的親しかった曹?を調略し、段支持へと転向させた。これで直隷派内の団結にヒビを入れると、安徽督軍倪嗣沖ら安徽派督軍たちが反馮活動を活発化させ、1918年(民国7年)2月には、やはり徐の画策により段は東三省張作霖を関内に迎え入れている。この結果、馮国璋は和平統一を撤回して護法軍政府への軍事行動の継続に追い込まれ、3月に段は国務総理へと復帰している[11]
安直戦争段祺瑞内閣閣僚(左から5人目が段祺瑞)

こうして主導権を取り戻したかに見えた段祺瑞だったが、1918年3月、自派の張敬尭を湖南督軍に任命するという致命的な失策を犯した。護法軍政府との最前線では直隷派の呉佩孚馮玉祥が勇戦していたにもかかわらず、戦功はほとんど無かった張を贔屓したのである。これには呉・馮は勿論、一度は段が篭絡した彼らの上司たる曹錕も反発した。特に呉は、秘密裏に護法軍政府と和議を結び、8月には再び「和平統一」の旗印を掲げている。こうして安徽派と直隷派の抗争は再び熱を帯びることになり、更に安徽派は日本への接近姿勢を他派から激しく非難されることになった。10月、情勢の逼迫を受け、段はまたしても国務総理を辞任している[12]

1919年(民国8年)、段祺瑞はパリ講和会議においてヴェルサイユ条約調印を図ったが、これに反対する五四運動の勃発を招いてしまう。この五四運動の中で安徽派の政治家、特に対日交渉に従事した曹汝霖・陸宗輿・章宗祥が徹底的に攻撃された。しかも呉佩孚ら直隷派や護法軍政府が五四運動を支持し、陸徴祥らパリ講和会議代表団も最後は北京政府の命令を蹴ってヴェルサイユ条約調印を拒否している。この結果、安徽派は威信を完全に喪失することになった。それでも段は「参戦軍」を「辺防軍」と改称し(総司令:徐樹錚)、引き続き主導権を握ろうと抵抗した。しかし、ここに来て、世論の動きを見た張作霖ら奉天派も直隷派と連合し、安徽派は孤立していく[13]

1920年(民国9年)5月、呉佩孚は湖南省の前線から独断で撤兵、7月には大総統徐世昌が直隷派の突き上げを受けて徐樹錚を辺防軍総司令から罷免してしまう。段祺瑞も負けじと徐世昌に圧力をかけ、7月9日に曹錕と呉を罷免させる。こうして14日に両派は全面衝突に至った(安直戦争)。しかし呉や馮玉祥ら直隷派の軍は精鋭であり、更に奉天派も直隷派に味方していたため、僅か4日で安徽派は全軍覆滅に追い込まれてしまう。惨敗を喫した段は下野を表明し、天津の日本租界に逃げ込んだ[14]
一時的な復権と晩年晩年の段祺瑞

段祺瑞は下野したものの、徐樹錚の助力を得て張作霖や孫文と連絡をとりあい、再起と直隷派打倒を図った。1924年(民国13年)9月、第2次奉直戦争が勃発し、翌月には馮玉祥が北京政変(首都革命)を引き起こした。これにより馮と張作霖の支持を受ける形で、同年11月24日に段は臨時政府執政として返り咲いたのである。翌1925年(民国14年)2月には段の主宰で善後会議を開くなどしたが、馮玉祥・張作霖らが軍事・政治的実権を握っており、段の影響力は限定的だった[15]

1926年(民国15年)になると、馮玉祥下野後の国民軍を壊滅させようと、奉天派・直隷派に加え、日本など主要諸外国も攻撃姿勢を示す。これが原因で学生・労働者らによる反帝国主義運動が勃発し、同年3月18日に段祺瑞は武力弾圧を加えた(三・一八虐殺事件)。更に張作霖らと結んで国民軍駆逐を謀ったが、これを察知した国民軍の鹿鍾麟に奇襲され執政府から追い払われた。その後、北京入りした呉佩孚・張作霖らを頼ろうとしたが、二人とも段を見捨てている。結局、段は天津に逃げ込み下野せざるを得なかった[16]

1933年(民国22年)2月、日本軍が段祺瑞を利用することを恐れた?介石は段を招聘し、段もこれに応じて上海に移ってきた。1935年(民国24年)、国民政府委員に任命されたが、実際には就任しなかった[17]1936年(民国25年)11月2日、天津から移った上海フランス租界蟄居中に病没。享年73歳[18]
囲碁

段は囲碁を愛好しており、汪雲峰顧水如劉棣懐過タ生呉清源らを援助した。また、呉清源の号である「清源」をつけたのは段である。
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ 狭間(1999)pp.45-49
^ a b 李(1978)、162頁。
^ 李(1978)、162-163頁。
^ a b 李(1978)、163頁。
^ これを受けて王士珍が陸軍総長を署理している。段の正式な辞職は1914年8月。
^ 李(1978)、163-164頁。
^ 李(1978)、164頁。
^ 李(1978)、164-165頁。
^ a b 李(1978)、165頁。
^ 李(1978)、165-166頁。
^ 李(1978)、166頁。
^ 李(1980)、166-167頁。
^ 李(1980)、167-168頁。
^ 李(1980)、168頁。
^ 李(1980)、168-169頁。
^ 李(1980)、169-170頁。
^ 李(1980)、169頁。
^ 元北洋軍閥の巨頭、死去『東京朝日新聞』昭和11年11月3日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p363 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

参考文献.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、段祺瑞に関連するカテゴリがあります。

狭間直樹「第1部 戦争と革命の中国」『世界の歴史27 自立へ向かうアジア』中央公論新社、1999年3月。


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