死刑存廃問題
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なぜなら死刑執行は、それ自体が刑罰であると同時に、執行の前後では、誤判・冤罪の被害、名誉回復に致命的で甚大な、もしくは一切回復不可能な影響を与えるためである。しかし一方で、こうした誤判・冤罪の可能性を完全に排除するために、死刑そのものを廃すべきだとの意見は、論の体をなさない主張である。
犯罪被害者刑罰の目的が被害者や家族の処罰要求に応えるためという論理は、全ての犯罪事例に適用できない場合があり、論理として不完全で刑法や刑事裁判の根本的論理にはならない。なぜなら、被害者の家族が存在しない、被害者の家族が存在するが所在も連絡先も不明、被害者の家族が存在し所在も連絡先も明らかだが被害者と絶縁状態で関わりを拒否、被害者の家族が死刑反対論者、被害者の家族が当該事件に関しては死刑を求めない、被害者や家族が刑罰を求めず赦しと和解を求める、加害者=被害者の家族、前記の諸事例の場合はこの論理は適用できない。つまり、前記のような事例の場合は論理としては、不起訴、不処罰、罪や判例に対して著しく軽い罰にする必要が生じる。加害者を死刑にすることが、被害者の家族とってどの程度の問題解決となるのか客観的な証明はない。刑法や刑事裁判の目的とは、個別的には、犯罪者に対して犯した罪に応じた処罰をするとともに、犯罪の原因を矯正し改革するための教育や訓練により更生を求める、国や社会全体としては個別的目的の集合体としての社会秩序の維持である。刑事裁判は被害者や家族の処罰感情のために行うものではないので、結果としての被害者や家族の処罰感情を満足させることはあっても、被害者や家族の処罰要求を満たすための処罰は刑事裁判の目的に反する。

仮に、存置論の被害者遺族についての主張を認めたとすると「死刑による冤罪被害者遺族の死刑賛成派への報復権」を担保しなければ、法の公正を著しく損なうというべきである。殺人に対して執行される死刑は応報であり人権を軽んじていることには当たらないや、遺族が明確に死刑を望んでいる場合に死刑を適用しないのは被害者の生命権と遺族の心情を侮蔑するものであるなどと、存置論は主張するが、死刑による冤罪被害者遺族の心情こそが最も侮辱されていることを無視している。罪に対してあまりにも軽すぎる刑が適用された場合、その不条理が被害者にとって第二のトラウマになるのは周知の事実である。情状酌量の余地のない殺人を行った犯人が終身刑で生き続ける不条理は遺族にとっては終わりのない苦痛であり、死刑在廃の議論において殺人の被害者遺族は大抵死刑賛成である。殺人に対して執行される死刑は応報であり人権を軽んじていることには当たらない。イスラム法のように被害者遺族が個人的に死刑を望まない場合は死刑が適用されないなどの制度改正には理はあるが、遺族が明確に死刑を望んでいる場合に死刑を適用しないのは被害者の生命権と遺族の心情を侮蔑するものである。応報そのものを否定することは法の公正を著しく損なう。
犯罪抑止力
存廃論を論じる際抑止力を考慮すべきか、という議論もある。まず現状における死刑の犯罪抑止力肯定論は科学的な論拠に基づいたものであるとは到底言えないものである。例えば、1988年に国連犯罪防止・犯罪統制委員会のために行なわれ2002年に改訂された、死刑と殺人発生率の関係についての最新の調査結果報告書は「死刑のもたらす脅威やその適用が、終身刑のもたらす脅威やその適用よりもわずかでも殺人に対する抑止力が大きいという仮説を受け入れるのは妥当ではない」と結論付けているし、ニュー・ジャージー州では「死刑に抑止力があるという見解が説得的とは言えない」という見地から死刑廃止の一つの根拠としている。対して抑止力肯定論が科学者側から提出された場合もあるという意見もある。それ自体はその通りであるのだが、そのような主張が国際科学学会等で認められたという事例はいまだ存在しないのである。犯罪抑止力なるものが死刑と無期刑との間にその抑止力の優位性の差異があるという意見があるが、現状において死刑廃止国と存置国の犯罪率の推移に死刑廃止を契機とした明らかな違いが全体として特に見られない以上説得的ではない。死刑の代替としての無期刑や長期の懲役にしても、統計的には明確な抑止効果は証明されていない。社会的全体での犯罪統計の変化の原因は多くの要因が複雑に相関しているため、個別の刑の犯罪抑止力の統計による実証はもともと不可能である[4][要ページ番号]犯罪の重大さに応じて刑を重くするという刑事政策は元々統計論に基づくものではなく、あくまでも被害に対する応報という法の正義という観点と、刑罰が厳重であれば犯罪を起こす動機が軽減するという「常識論」に基づくものである。よって死刑の抑止力が統計的に証明されていないから同じように統計的に抑止力が証明されていない無期刑に替えるべきとの論そのものに根拠がない。また法哲学においては効用主義を刑法に適用すること自体が正義に反すると指摘されている。例えば詐欺罪に無期刑や死刑にすれば社会全体の詐欺の犯罪数は軽減するかもしれないがこれは法の公正を損なう行為である。同じように殺人に対する罰を社会的効用を理由に無期刑に減らすのは、法によって尊厳を回復するという犯罪被害者の権利を著しく損なうものである。社会統計を理由に死刑の廃止や復活を主張すること自体が論外である。
世界の趨勢(すうせい)自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)が1989年12月に国連総会で採択されて以後、世界の多くの国々が死刑制度を廃止ないし死刑執行を停止している。ここ20年(1991-2010)で死刑執行を行った国が1995年の41ヵ国をピークに漸減し、現在20ヶ国前後で推移しているのに対し、死刑制度を全面廃止した国の数は、1991年の48ヵ国から2010年の96ヵ国まで一度も減少せず推移している。即ちひとたび廃止された死刑制度が再導入されることは滅多にない[5]。こうした世界的趨勢の中、2007年5月国連拷問禁止委員会は日本に対し死刑執行停止を求める勧告[6] を行っている。これは内政干渉を理由に無視できるものではなく、国際人権規約を批准し、国連人権理事会理事国をつとめる国として、日本は死刑制度のあり方を再考すべきである[7][8]。右存置論における「死刑の是非はあくまで法の正義の観点からのみ論じられるべきである。」との主張も、法の正義の観点からいっても反論し難いくらいに否定されているから、独裁・専制国家以外の立憲主義国家においては廃止されてつづけているのであることを無視している。自由権規約第2選択議定書(死刑廃止議定書)の採択における賛成国(59ヶ国)は国連加盟国(当時)の37.1%にすぎず、これを国際的潮流の根拠とするには疑問がある(中野 2001, p. 102)。また、当該条約は戦時犯罪への死刑を容認する部分的死刑存置条約であり、現状多くの国はこの点から部分的死刑存置国と言うべきである(中野 2001, p. 13,50)。冷戦中は先進国=死刑廃止、途上・独裁国家=死刑維持の傾向が存在したが冷戦後の民主化後もアジアとアフリカの民主国家の多くが死刑制度を維持しており、死刑廃止の潮流と言われているものは、むしろ全面的廃止国の多い欧州と南米の地域的慣行と言ってよい(中野 2001, p. 124)。

死刑反対派の国の意見、および国際機関の提言には真摯に耳を傾けるべきではあるが、そもそも刑法は国の基本制度であるため、世界全体で見た時の廃止国数や、それに基づいた国際潮流論にとらわれるべきではなく、死刑の是非はあくまで法の正義の観点からのみ論じられるべきである。
コスト(金銭的、人的など)死刑囚を収容する独房の看守や死刑を執行する職員の精神的負担が大きい。また、死刑は無期刑に比べ経費が安く済むという主張は一概には言えない[9]

死刑に関わる問題には厳格性が要求される。刑法では、有罪無罪の事実認定だけでなくいかなる疑いがある場合にもそれは常に被告人に有利に解釈されなければならないという前提がある。この厳格性があるがゆえに死刑制度はきわめて高くつくとの見方がある[10]。厳格性のゆえに死刑は高くつくということであれば、存置論者は「もっと早くやってしまえばいいだろう」というであろうが、無実の人が処刑される危険性を増すということになる。現行犯など明確な事案なら、時間がかからないだろうという主張も意味がない、全死刑囚のうち現行犯で逮捕される割は極めて少数なので、結局コストは高くついてしまう。被告人が「死刑の早期執行を」などの意思を示すことにより、比較的短い期間(1年?数年程度)で死刑が執行されることはある。しかし、こうした例は稀であり、場合によっては収監期間がおよそ半世紀に及ぶ場合(袴田事件など)もある。こうした長期に渡る強制的に自由を抑圧された生活で、死刑囚は拘禁反応を示す場合も見られるし、他方で収監された刑事施設内で病死、または自然死する場合もある。さらに、こうした死刑囚は「死刑」が刑罰であり、他の懲役囚と同じ様に刑務作業を行う義務を負わず、その分収監のための経費が累積し、社会への負担が高くつきがちである。

 

存廃論の論点をめぐる議論

死刑の是非の論争は学術的には哲学・倫理学において政策や法の是非を論じる規範倫理学や応用倫理学に属する。この観点において死刑の是非の論争は義務論帰結主義徳倫理学の3つに大別される。「人の命を奪う死刑は悪」(人権論)や「死刑の冤罪は取り返しがつかない」などの死刑反対論や、「死刑は応報である」(応報論)や「生命権、自由権、財産権の侵害は死刑、懲役、罰金で償うべき」(社会契約説)などの死刑賛成論は義務論に属する。死刑や終身刑の犯罪抑止効果およびその制度の経済的採算性の比較は帰結主義(論)に属する。徳倫理学においては、死刑という刑罰が残虐であるか、あるいは死刑によって被害者や遺族の救済が達成されるのかという徳に関する考察や、被害者と加害者、捜査に関わる警察や裁判に関わる法曹(検察官、弁護士、裁判官)および死刑を実際に執行する看守などに実際にどのような精神的および道徳的影響が及ぼされるのかが議論される。一般論として反対派は「血を血で贖う」死刑制度は社会を残虐化するとの論を展開し、賛成派は、死刑で罪が償われることにより法の正義および生命の尊厳が再確認されるとの論を展開する。
冤罪の可能性

死刑廃止を主張する重要な論拠の一つとして誤認による逮捕・起訴・死刑判決・死刑執行が主張される。死刑執行後に冤罪が判明した場合は、その被害は重大であり、被害の回復は不可能である。
冤罪は死刑廃止の理由であるとの主張

冤罪を理由に死刑廃止を主張する人々は、下記の理由で冤罪を論拠とする死刑廃止を主張している。

完全無欠・全知全能の人は存在せず、全ての人は誤認・誤解・誤判断をする可能性があるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。

警察・検察・裁判所・法務省も人の集団による組織であるのだから、誤認・誤解・誤判断で逮捕・起訴・有罪判決・刑の執行をする可能性があるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。

冤罪で死刑を執行したら、その被害は死刑以外の刑罰と比較して重大であり、被害の回復は不可能であるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。

冤罪で死刑以外の刑罰を執行されても、その被害は死刑と比較して軽少であり、被害の回復は可能であるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。

冤罪で死刑以外の刑罰を執行されても、本人の存命中に再審請求し、再審で無罪判決を受ければ、名誉の回復は可能であり、金銭による被害賠償を受ければ被害の回復は可能であるから、死刑という特定の刑罰を廃止する理由になる。

冤罪は死刑廃止の理由ではないとの主張

冤罪は死刑廃止の理由にはならないと主張する人々は、下記の理由で冤罪は死刑廃止の理由にはならないと主張している。

死刑冤罪の執行は取り返しがつかないが終身刑や懲役の冤罪の執行は取り返しがつくという考えは誤りである。まず、冤罪の終身刑や懲役も被害者が冤罪が判明する前に死亡した時点で修復不能である。また、法治制度が人の執行する制度である限りはでは誤審が最後まで判明しない場合は終身刑や懲役でも必ずあるはずである。冤罪によって刑務所で生涯を絶望と無念に終えるのは長期間に渡る精神的拷問後の死であり死刑よりも惨いと論じることもできる。

懲役により失われた寿命や人生が金銭で回復されるという主張は誤りである。例えば60歳まで無実の罪で投獄された後に生涯年収の例えば2倍のお金が渡されるという取引に事前に合意するような一般人がいるだろうか。本人が60歳なら、親は大抵の場合は亡くなっており、家族も離散あるいは家族は人殺しの近親者のレッテルを数十年背負うわけであるから、これらの、失われた人生や寿命が取り返しがつかないのは自明の理である。また、懲役を伴わない痴漢や万引きなどの軽い犯罪においても前科があれば一般人は社会的信用を完全に喪失するわけであるから、刑罰の大多数の誤判は多くの場合は取り返しがつかない。冤罪が判明しない、あるいはその判明が遅すぎるということは避けられない、取り返しがつかない誤審があるから刑を執行できないというのなら死刑や懲役どころか法制度や政治そのものが成り立たない。死刑の誤審は取り返しがつかないので廃止すべきだが禁固刑の誤審は取り返しがつくので許容できるというのは論の体をなさない。


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