江戸時代中期には、楫取魚彦が「契沖仮名遣」の修正を試みて、用例を入念に検討した『古言梯』を著した。その結果として、仮名遣とは発音の書き分けであり、その後の混乱は発音の歴史的変化により生じたものであることが明らかにされた[17]。『古言梯』は魚彦の没後も、補訂増補版にあたる語学書が数多く出版され[18][19]、これにより歴史的仮名遣は表記の上で、また理念の上からもほぼ完成の域に達した。
江戸後期には、宣長の弟子である石塚龍麿が『古諺清濁考』と『假名遣奧山路』を著し、いわゆる上代特殊仮名遣の存在が明らかとなった[20]。奧村榮實は『古言衣延辨』で、龍麿による上代特殊仮名遣を過去の発音の相違によると推定した。なお上代特殊仮名遣についての研究は、橋本進吉が論文を発表している[21]。 明治時代になって公教育では、上で述べた契沖以来の国学の流れを汲む仮名遣を採用した。これが今日において歴史的仮名遣と呼ばれるものである。歴史的仮名遣とは契沖仮名遣と字音仮名遣であった。 明治維新前後以来、国語の簡易化が表音主義者によって何度も主張された。すなわち、「表記と発音とのずれが大き過ぎるので、歴史的仮名遣の学習は非効率的であるから、表音的仮名遣を採用することで国語教育にかける時間を短縮し、他の学科の教育を充実させるべきである」との主張である。それらは漢字を廃止してアルファベット(ローマ字)や仮名のみを使用するものであった[注 9]。しかし、このような主張に対して、民間からの強い批判があり[注 10]、国語の簡易化が罷り通ることはなかった。 このような背景により、1900年のいわゆる「棒引仮名遣い」は、あまり広まらないまま廃止された[27]。また、国語調査会の仮名遣改定案(1924年)も強い反対意見に遭って公布には至らなかった。その後、新たに設置された国語調査会によってに「新字音仮名遣表 昭和21年 (1946年)、GHQの民主化政策の一環として来日したアメリカ教育使節団の勧告により政府は表記の簡易化を決定、「歴史的仮名遣」は古典を除いて公教育から姿を消し、「現代かなづかい」が公示され、ほぼ同時期にローマ字教育が始まった。以来、この新しい仮名遣である「現代かなづかい」(新仮名遣、新かな)に対して歴史的仮名遣は「旧仮名遣」(旧かな)と呼ばれる様になった[注 11]。さらに昭和61年 (1986年)、「現代かなづかい」は「現代仮名遣い」に修正された。 なお、漢字制限も同時になされ、当用漢字(現・常用漢字)の範囲内での表記が推奨され、「まぜ書き」や「表外字の置換え」と呼ばれる新たな表記法が誕生した。当用漢字以後は人名用漢字が司法省(法務省)により定められ、漢字制限はJISも含めて混沌としたものとなっている。歴史的仮名遣論者では多く漢字制限にも反発することが多い。福田恆存などは、全ては国字ローマ字(横文字)化のためである、漢字制限に際しては改革案がCIEの担当官ハルビンによって「伝統的な文字の改変は熟慮を要する」と一蹴されたにもかかわらず断行した、と糾弾している[30]。 現代仮名遣いは制定後比較的速やかに社会に定着し、1970年代以降は公的文書、新聞はもとより、ノンフィクションや小説に至るまでほとんどが原文の仮名遣いの何如に関わらず現代仮名遣いで出版されるようになった[注 12]。 その一方で、その後も仮名遣いの見直しを含む国語改革への批判と歴史的仮名遣の復権を主張して歴史的仮名遣での出版を続けた個人は少なくなかった。代表的な人物としては以下の人々が挙げられる。
明治から第二次世界大戦まで
戦後
文学者
石川淳、阿川弘之、福田恆存、丸谷才一、三島由紀夫、大岡信、谷崎潤一郎、川端康成、金子光晴、塚本邦雄、吉田健一、内田百、森茉莉、円地文子、尾崎一雄、福永武彦、小沼丹、安岡章太郎、結城信一、高井有一、齋藤磯雄、入澤康夫、須永朝彦、吉岡實、吉原幸子等
研究者
小泉信三、田中美知太郎、山岸徳平、宇野精一、木内信胤、森銑三、岡崎正継