歴史修正主義
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これらと同様の歴史の否認メカニズムはオスマン帝国におけるアルメニア人虐殺を巡る議論やユーゴスラヴィア内戦におけるセルビアクロアチア双方の主張に見られることが指摘されており、第二次世界大戦におけるドイツや日本に関連する言説だけに留まらない普遍的な主題とされる[10]
用語の成立

日本語の「歴史修正主義(英語:historical revisionism、独語:Geschichtsrevisionismus)」という用語は翻訳語である[4]。「修正」という用語が明確に政治的な意味合いを帯びて登場したのは19世紀末のフランスで発生したドレフュス事件である[11]。フランスの歴史学者ヴィダル=ナケは、ユダヤ系軍人ドレフュスの冤罪を巡る裁判の後まとめられた『ドレフュス事件史』に対して、ドレフュスの有罪を主張する右派団体の構成員が、ドレフュスの有罪を立証するために虚偽を入り交ぜた「事実」をまとめた本を『ドレフュス事件史』の「修正版」と銘打って出版した事例を「歴史の否定という意味での歴史修正主義の『文学的起源』としている」[12][13]

次いで「修正主義」という用語がイデオロギー的な派閥を指す用語として用いられたのは社会主義運動の中における議論と権力闘争におけるレッテルとしてであった[14][4]。19世紀末、カール・マルクスの理論に基づき、階級闘争が激化し自然にブルジョワ社会が崩壊して革命に至るという理論を支持する社会主義者の主流派は、現実の状況がこれに合致していないとして理論の修正や改良を迫る者を侮蔑的な意味合いをこめて「修正主義者」と呼んだ[15]。20世紀においてもトロツキースターリンが相手を修正主義者と批判し合ったのを始め、共産主義国家や国際共産主義運動内部における政治的な非難の言葉として「修正主義」が用いられた[16]

岩崎稔/シュテフィ・リヒターによれば、社会主義運動におけるレッテルとして使用されていた「修正主義」という用語が「歴史の解釈をめぐって用いられるようになったのは、厳密に言えば、ナチスドイツの行った行為をヨーロッパ現代史のなかでどのように理解するのかという点で、テイラーフィッシャーが1960年代に引き起こした論争的な議論に端緒を発している。」[4][注釈 1]
歴史学における「修正」と「歴史修正主義」

歴史学において既存の歴史を「修正」することそれ自体は学術的な営みであり特異なものとはみなされない。新たな史料、視点、解釈など様々な要素によって研究者たちは常に歴史を更新し続けている。しかし、その中である種の特徴を持つ言説は特に「歴史修正主義」として分類され、多くの場合は非難の対象となる。

近代的な意味での歴史学は概ね19世紀頃に確立された。近代実証史学、あるいは近代歴史学の父と呼ばれるレオポルド・ランケは個人の主観を排して「それが実際にいかにあったか(wie es eigentlich gewesen ist)」のみを語るという有名なフレーズを書き残している[18][19]。これはフィクションや理念から始まって哲学を語るのではなく、事実のみを集めた実証的・客観的な歴史を再構築するという実証史学の立場を端的に表す表現である。しかし、歴史的「事実」は常に過去のものであり物理的に存在していない。そのためランケが実際に収集することが可能であった「事実」とは過去に書き記された(公)文書であった[20]。しかし、書き残された文書がどれだけ事実を「確証」しているかという点が問題であった。文書を深く読み込むことで不動の「事実」を確立していくというランケ的な立場は歴史学の主流となったが[21]、ある歴史過程全体を叙述しようとした時、複数ある史料のどれを重視するか、相互に矛盾する記録をどのように解決するか、併記するならば比重をどう置くかという問題が常に存在し、関連する史料を全て集め確認することの物理的な不可能性、史料に書かれなかったことの重要性なども相まって、歴史を叙述する側の判断と評価が介在せざるを得ない[22][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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