武豊
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このころから競馬が大好きで、同級生の池江泰寿と学校で競馬の話ばかりしていた[16]。小学校2年生の時にはすでに東京優駿(日本ダービー)が特別な競走であることを理解しており[13]、将来騎手となって日本ダービーを勝つことを夢見るようになっていた[17]。1979年小学校5年生の時、栗東乗馬苑の少年団の一員となり、本格的に乗馬を習い始めた[13]。当時指導員だった竹之下満義は武の騎乗について次のように回顧している。「すごくバランスが良くて馬上での据わりが普通の子と全く違った。とにかく動きが柔らかく、他の人が敬遠するような癖のある馬に乗っても全然バウンドしないしコースを綺麗に回ってくる。馬も彼が乗ると嫌がらないんです。馬が暴れても鞭を使わずになだめて御していました。将来絶対トップジョッキーになると思いました」[13]1981年春、卒業文集に「将来の夢は騎手」と記し、金勝小学校を卒業[13]。そして栗東中学校に入学し、中学生になっても相変わらず乗馬苑に通い、乗馬を続けていた[13]1984年春、騎手課程第3期生としてJRA競馬学校に入学[13]。同期には蛯名正義塩村克己芹沢純一などがいる[18]。当時教官だった荻野忠二、真家眞らは武の馬乗りの技術は入学当初から高かったと話している[注 3][15]。空き時間になると、撮影された自分や他生徒の騎乗映像をよく再生して研究していたという[13]。またアメリカの競馬雑誌、ブラッドホースの写真を食い入るように見ていたり、クリス・マッキャロンゲイリー・スティーヴンスといったアメリカの一流騎手が叩き合う映像を、ワクワクしながら何度もリピートしたりと[15]、アメリカの競馬に憧れを抱くようになっていた[19]。2年生の10月、騎手デビュー後に所属する栗東・武田作十郎厩舎の実習生となり、3年生の9月まで実習を行った[15]。武は実技はもちろん馬学などの成績もよく、学年トップで競馬学校を卒業した[13]
騎手時代
新人最多勝記録を更新する

1987年(昭和62年)2月17日、競馬学校を卒業[2]。 栗東の武田作十郎厩舎所属となり念願の騎手デビューを果たす[20]。武田作十郎厩舎に所属したことにより、武は河内洋の弟弟子となった[21]。3月1日阪神4レースにアグネスディクターで初騎乗[20][1]。同3月7日、阪神3レースでダイナビショップに騎乗し初勝利[1]。9月12日、ケイアモールで42勝目を挙げ、小屋敷昭が持っていた関西新人最多勝記録を更新した[21]。10月11日、京都大賞典トウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇を果たす[21]。11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新した[21]。最終的には69勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した[21]
競馬ブームの主役へ

1988年(昭和63年)菊花賞スーパークリークに騎乗[1]。最後の直線入口で、以前自身が騎乗経験のあるカツトクシンに前を塞がれていたが、カツトクシンが外に膨れる癖を知っていた武は慌てず、内が開くまで動かずに待機[22]。思惑通り開けた内を通り、最後は2着に5馬身突き放して勝利[23]。GI競走初勝利を飾り、19歳8か月でJRA史上最年少クラシック制覇を達成した[注 4][22]。そしてこの冷静で頭脳的な騎乗を周囲から絶賛され[23]、「天才」として脚光を浴びるようになった[25]。さらに武はこの年113勝を挙げ、史上最年少で関西リーディングを獲得[26]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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