厳重な機密保持に加えて、新人製図工による図面紛失事件や[29]、熟練工でも困難な進水台の作成など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため、当日(1940年(昭和15年)11月1日)を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置した[30]。このような厳重な警戒態勢の中で、伏見宮博恭王元帥(昭和天皇名代)[31]、及川古志郎海相、豊田副武艦政本部長らが列席のもと、進水式は挙行された。皇族の伏見宮博恭王でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりであった[32]。
進水時に進水台を潤滑にする、獣脂の調製・製造にも多大な労力が必要だった[33]。錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け、長崎造船所第二船台から狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、制動までに44mよけいにかかったが[34]、予定どおり艦尾をやや左に振って停止した[35]。無事に進水し、関係者は涙が止まらなかったという[36]。進水時、周辺の海岸に予想外の高波が発生した。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている[37]。進水式は映像として記録されたが、終戦時に焼却された[38]。同日附をもって正式に『武蔵』と命名[2]。なお軍務局の寺崎隆治(海兵50期)や、及川大臣の秘書官として進水式に参加した福地誠夫によれば、武蔵の存在を排水量4万トン程度の戦艦として世界に公表する予定であったが、豊田艦政本部長の反対により急遽中止された[39]。
進水後は日本郵船の大型貨客船春日丸(後に空母大鷹に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で工事が進められた[40]。艦中央部右舷に設置された司令部施設に関しては、大和を建造中の呉工廠が内装への自信を持てず、豪華客船建造の実績がある長崎三菱造船所に依頼して、武蔵と全く同じ調度品を揃えて大和に搭載した[41]。それでも武蔵の方が調度品が良かったという証言がある[42]。真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発すると、長崎の住民も武蔵のことを公然と話題に出すようになっていった[43]。また武蔵進水後も第一船台は簾で隠されており、市民は「武蔵がもう1隻いる」と噂していた[44]。造船所で発生した夜間火災で簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがり人々を驚かせたが、これは第二船台で建造中の空母隼鷹(橿原丸)であった[44]。また、当時の武蔵の甲板上を甲板士官が自転車で移動していたという逸話が残っている。スクリューの取り付け等の艤装は、佐世保工廠に本艦の為に整備された第7ドックで実施された[45]。その後、三菱重工業長崎造船所に回航、艤装が続けられるも、副砲塔のバーベット構造の防御力強化のため4基とも取り外しの上で呉海軍工廠に回航(副砲塔は別途運送船で回航)され、呉工廠で完工する[要出典]。完成直後の武蔵をとらえたもので、昭和17年(1942年)6?7月に行われた公試運転の期間中に撮影されたとされる。[46]
艦内には「武蔵神社」があり、御神体は武蔵国氷川神社から分霊したものだった[47]。位置は上甲板右舷、長官室・艦長室前の通路上である[48]。竣工式に氷川神社の神主が招かれており[49]、また伊勢神宮、長崎諏訪神社の系列社もあったとされる[50]。 1942年8月5日に「武蔵」は第一艦隊第一戦隊に編入された[51]。「武蔵」は1943年1月18日に呉を出発してトラックへ向かい、1月22日に到着[51]。2月11日に「大和」に代わって「武蔵」が連合艦隊旗艦になった[51]。武蔵は連合艦隊旗艦になった最後の戦艦であり、太平洋戦争期間中に一番長く連合艦隊旗艦を務めた艦でもある。 しかし、トラック諸島泊地からは動くことは無く旗艦となっても戦いの最前線に立たなかったことから、当時の将兵達が大和を「大和ホテル」と揶揄していたように、武蔵も「武蔵御殿」「武蔵旅館」と陰口を叩かれるようになっていた。4月18日、聯合艦隊司令長官山本五十六が戦死、宇垣纏参謀長も重傷を負う(海軍甲事件)。後任の連合艦隊司令長官には古賀峯一大将が任命され[52]、古賀長官はトラック泊地に移動して武蔵に将旗を掲げた。
連合艦隊旗艦期