武蔵野
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中世になると多数の歌が武蔵野を題材として詠まれ[3]、なかには後世までたびたび引用されるものもあった[2]

むらさきのひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る (詠人知らず、古今和歌集

をみなへしにほへる秋の武蔵野は常よりも猶むつましきかな (紀貫之後撰和歌集

行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月かげ (九条良経新古今和歌集

武蔵野やゆけども秋のはてぞなきいかなる風か末に吹くらむ (久我通光、新古今和歌集)

玉にぬく露はこぼれてむさし野の草の葉むすぶ秋の初風 (西行新勅撰和歌集

むさしのは月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲 (藤原通方、続古今和歌集

めぐりあはむ空行く月のゆく末もまだはるかなる武蔵野の原 (藤原定家新千載和歌集

長月の霜にさえゆくむさし野のゆかりに遠きくさのもとかな (藤原定家)

むさしのは木蔭も見えず時鳥幾日を草の原に鳴くらん (一色直朝、桂林集)

むさし野といづくをさして分け入らん行くも帰るもはてしなければ (北条氏康、武蔵野紀行)

なお、11世紀に書かれた『更級日記』(菅原孝標女)と14世紀初めの『とはずがたり』(後深草院二条)は、いずれも自叙伝というジャンルのノンフィクションだが、各作中では「馬上の人物が見えないほど」に草の生い茂った土地として武蔵野が描かれており、当時の武蔵野の実態の一端をうかがい知ることができる。今は武蔵の国になりぬ[注釈 8]。(中略) むらさき生ふと聞く野も、(あし)・のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺[注釈 9]あり。 (更級日記)八月の初めつ方にもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍りつれと思ひて、武蔵の国へ帰りて、浅草と申す堂あり。(中略) 野の中をはるばると分けゆくに、女郎花よりほかはまたまじるものもなく、これが高さは馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや分けゆけども尽きもせず[注釈 10]。ちと傍へ行く道にこそ宿などもあれ[注釈 11]、はるばるひととほりは来し方行く末野原なり。観音堂はちとひき上りて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに草の原より出づる月影と思ひ出づれば[注釈 12]、今宵は十五夜なりけり。 (とはずがたり)

以上のように、中古から中世にかけての日本人がもっていた“武蔵野のイメージ”は、総じて「野草の野原」、のちには「月の美しい、茫漠としてどこまでもつづく原野」といったものであったと言うことができる[3]
江戸時代花札の別名を「武蔵野」というが[4]、そのイメージを象徴する「芒に月」の札[5]

江戸開府以降、人口の急増を見込んで、近郊各地の新田開発が旺盛に進められた。進歩した測量技術と社会資本によって玉川上水野火止用水が開削され、武蔵野台地上でも農業が可能になった[6]。こうして進められた開拓によって“原野”は徐々に姿を消し、代わって、田畑、社寺林屋敷林街道防風林雑木林など、今日“武蔵野の自然”と呼ばれているものが人の手によってもたらされていくこととなった[3]

しかしながら、文芸上に現れる武蔵野のイメージは中世までのそれと変わらず、むしろ失われゆく武蔵野を惜しむものが多かったという[3]。たとえば前述の『江戸名所図会』は現在の1都3県にまたがり各地の観光地名所を網羅した大部作で、「武蔵野」および関連項目には多くの紙面を割いて解説している[2]が、そこには次のように書かれている。草より出て草に入る[注釈 13]、又草の枕に旅寝の日数を忘れ[注釈 13]、問ふべき里の遙かなりなど、代々(よよ)の歌人袂をしぼりしが、御入国[注釈 14]の頃より、昔に引きかへ十万戸の炊煙紫霞と共に棚引き、僅(わづか)に其の旧跡の残りたりしも、承応より享保にいたり四度まで新田開発ありて、耕田林園となり、往古の風光これなし。されど月夜狭山に登りて四隣を顧望するときは、曠野蒼茫、千里無限(せんりきはまりなく)、往古の状を想像するに足れり。武蔵野図屏風(17世紀、サントリー美術館蔵)

江戸時代には、美術の世界でも「武蔵野図」と呼ばれるジャンルの作品が制作された[7][8][9][10][11][12]。とりわけ「武蔵野図屏風」の名で呼ばれる屏風絵は一時流行し、後には定型化した様式をもつに至って[7][8]、類似の作品が多数つくられた。茶器や刀装具、調度品などの工芸作品も含め、これらの作品に共通するのは、薄(すすき)をはじめとして桔梗女郎花野菊などの秋草、月、東国を表す記号でもある富士山などを題材とし、寂寞とした秋の野を描き出している点であり[12]、前述のような武蔵野のイメージ、美意識の視覚化を試みている。
国木田独歩の描いた武蔵野

国木田独歩の『武蔵野』(1898年(明治31年)、発刊当時の作品名は『今の武蔵野』)はその名のとおり武蔵野を主題とし、その風景美と詩趣を描きつくした著名な随筆作品で、後世の“武蔵野のイメージ”の形成に多大な影響を与えている[3][注釈 2]。国木田は渋谷村の一角に居を置き、みずから毎日のように出かけては東京近郊を逍遥し、そうして過ごした実感体験にもとづいて『武蔵野』を書き上げた。

作中、「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもつて絶類の美を鳴らしてゐたやうにいひ伝えてあるが、今の武蔵野は林である」とあるが、この「林」とはすなわち、薪炭の供給源としても重要だったいわゆる里山雑木林のことであり、国木田は都市からそう遠くない、人間の生活圏と自然が入り交じる田園地帯として、新時代の“武蔵野”を描き出そうとした[3]。彼はまた次のようにも書いて、武蔵野の個性、唯一性を強調している。武蔵野を除いて日本にこのやうな処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのやうに密接している処がどこにあるか。

国木田は自らの見聞きした田園地帯の情景を描写するために筆をつくした。次の一節には、彼が体感した“どこまでもひろがる武蔵野”の空間性がよく表現されている。なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いてゐると、澄みわたつた大空が梢々の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末々々に砕け、その美しさいひつくされず。(中略) 武蔵野のやうな広い平原の林が隈なく染まつて、日の西に傾くとともに一面の火花を放つといふも特異の美観ではあるまいか。もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができがたいにせよ、平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、ほとんど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向かつて黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなにおもしろからう。

友人が示した“武蔵野の範囲の定義”(前述)に対して、国木田は「自分は以上の所説にすこしの異存もない」と書き添えているが、しかしながら彼自身が強調したのはやはり麦や大根の畑、桑の木畑、などの雑木林、の目立つ屋敷林、ときに原が見渡すかぎりモザイクのように混交してひろがり、ところどころに刻まれた谷戸の底には水田があるという、東京西郊の丘陵地帯に当時ひろがっていた田園風景であった。こうした原風景は、その後の都市化の漸進により徐々に失われ、今は面影を残していない。なお、この丘陵地帯とは、現在では武蔵野台地などとも呼ばれているものである。
近現代の武蔵野

雑木林に囲まれた哀愁漂う武蔵野の風景像は国木田以外にも徳富蘆花などの文士によって形成され、国木田の『武蔵野』が教科書に採用されることでその影響力はさらに強固なものとなった[5]。1910年代以降には、新宿の映画館武蔵野館1920年開業)のように、いろいろな事物で「武蔵野」をキャッチコピーに含ませたりにすることが流行し、今日で言う地域ブランドを形成していった[5]


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