武田麟太郎
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10月には、受験誌『考へ方』に「鈴木君の事」を投稿し、藤森成吉の選考に寄り第一位となった。「鈴木君の事」は翌年の1月・新年号に掲載された[3]。麟太郎は一高受験を希望するが、経済的な理由で父親に反対された[3]
三高時代

1923年(大正12年)4月、第三高等学校文科甲類(英語必修)に進んだ麟太郎は、ある日学生掲示場の横で、蝦蟇のような顔でズックカバンを肩にかけている目立つ男が気になった。誰かと人に訊くと、落第を2度した「三高の主」「古狸」と呼ばれる男として有名な梶井基次郎理科甲類)だった[5]

クラスで一番背の低い麟太郎は高下駄を履き、運動神経のなさなどの劣等感から虚勢をはって弊衣破帽の無頼の恰好で次第に学内で目立つようになった。創作した短編も大阪今日新聞などに投稿し、若山牧水佐藤春夫を読み、田山花袋の随筆を通じて井原西鶴を知り、永井荷風を愛読した[5]。ある日、3年の中谷孝雄から劇研究会の回覧同人誌『嶽水会雑誌』への寄稿を依頼された麟太郎は、以前に書いた「銅貨」を6月に投稿した[5]

その後、麟太郎はグラウンドを歩いている時、同誌に作品投稿していた劇研の梶井基次郎から突然話しかけられて自作「矛盾の様な真実」の感想などを求められ戸惑った。今度君がいいものをきっと書いてくれと梶井から丁寧に言われて麟太郎は恐縮した[6][5]。次第に梶井と親しくなった麟太郎は、梶井が卒業する時には愛用の肩掛けズックカバンをもらい受けた[6][7]

麟太郎は、梶井がいた三高劇研究会に入会し、土井逸雄、清水真澄、浅見篤(浅見淵の弟)、楢本盟夫らと同人誌『真昼』を発行し、身辺観察的な短い文章を寄稿した[8]。この誌名は、横光利一の『頭ならびに腹』の書き出しの「真昼である。特別急行列車は…」にちなんで付けられた[5]
帝大時代

1926年(大正15年)4月、東京帝国大学文学部仏文科に進学し、本郷区追分町11番地(現・文京区向丘2丁目)の長栄館に下宿した。三高の先輩の梶井基次郎、中谷孝雄らと交友し、三好達治とも知り合った[9]。しかし出世欲が強く計算高かった麟太郎は、彼らの同人誌『青空』とは肌が合わずに同人加入はしなかった[9]

麟太郎は、中学時代の同級生の藤沢桓夫が大阪高校(現・大阪大学)在学中の1925年(大正14年)3月に始めた同人誌『辻馬車』の方に加わった。藤沢は新感覚派的な「首」を5月に発表して川端康成横光利一から注目されていた[10][11]

麟太郎は、浅草や場末で遊んで登校せず、やがて労働運動に共感を覚え中退した。1929年(昭和4年)1月に『創作月刊』に「凶器」を発表し一部で注目され、同年6月に『文藝春秋』に「暴力」を発表した。この作品は発禁となり部分的に削除されたが、原文を取り寄せた川端康成に文芸時評で「表現の力強いテンポ」などを評価され、武田はプロレタリア作家として文壇に地位を築いた[10]
市井事もの

1933年(昭和8年)に林房雄小林秀雄が創刊した『文學界』に川端と共に参加。1936年(昭和11年)には『人民文庫』を創刊し主宰したが発禁となり、莫大な借金を背負うことになった。プロレタリア文学への弾圧を経て、転向井原西鶴浮世草子の作風に学んだ「市井事もの」を著し、時代の庶民風俗の中に新しいリアリズムを追求する独自の作風を確立した。1942年(昭和17年)には、川端が編集代表となり、島崎藤村志賀直哉もいた季刊『八雲』でも、武田は編集同人になった[10]
戦中・戦後武田麟太郎(1940年 - 1941年頃)

太平洋戦争中は陸軍報道班員としてジャワ島に滞在。1944年(昭和19年)1月に無事帰還した。1943年(昭和18年)には、武田が「文学の神」と崇めていた徳田秋声が亡くなっていた。1945年(昭和20年)5月25日の東京空襲麹町2番町の自宅が全焼し、6月に妻・留女の実家のある山梨県甲府市伊勢町の遠光寺に疎開した。そしてそこでも7月7日の甲府空襲に遭い全焼し、同県の富河村の弘円寺に妻子と共に移動した[10]

敗戦を告げる玉音放送に気力を喪失した武田は非常に落胆。戦後の作品「田舎者歩く」や「ひとで」には、その心境が反映された[12]。「田舎者」では疎開先から上京し、東京の荒地を見た時の自身の悲痛を、幕末の「天野八郎」に仮託して綴った[13][10]。ああ戦争は敗けて了つたんだ。取りかへしのつかぬことになつたと、深い破滅の淵をまつさかさまに眼にもとまらぬ速さで顛落して行くに似た幻想に呼吸もとまる位苦しまされたりした。 ? 武田麟太郎「ひとで」

敗戦の年の12月には、神奈川県藤沢市片瀬西浜の家(妻の友人の柴田静子方)を借りた。武田はその家から東京に通い、共に徳田秋声を尊敬する川端と協力し、秋声の作品集の刊行に向け勤しんでいたが、秋声の息子・徳田一穂の突然の不可解な変心により出版は翌年の3月初旬に頓挫した[10]。武田は新聞小説を2本抱えて多忙であったが、上京時には新橋有楽町で飲み歩き泥酔の日々だった。中野にいた愛人・千代の家に泊って、自宅に帰らないこともあった[10]

1946年(昭和21年)3月23日の夜、泥酔していた武田は終電を大磯まで乗り越し、豪雨の中を3キロ歩いて茅ケ崎駅まで戻り、駅中で原稿を執筆した後、徒歩で帰宅。24日の昼に原稿を持って上京し、帰宅後に再び執筆。25日に40度の発熱で寝込んだが、26日から無理をして執筆作業をし、28日に激しい頭痛となり医師を呼んだ[14][10]

29日に医師がカンフル剤などを注射するが、30日から昏睡状態になり、体中が痙攣を起して危篤状態になった。武田の家に駆けつけた高見順らが東大法医学の医師を呼んで脳炎だと判ったが、近くに緊急の入院先が見つからず、応急処置も効かずに31日に再び発作を起こして死去した。武田は長年の飲酒からか肝硬変になっていた[15][10]

吉行淳之介は武田の死因について、当時カストリ焼酎などの粗悪な密造酒が流行しておりそれにはしばしばメチルアルコールが混入していて失明する者や命を落とす者が多く、武田の死因もメチル入りの酒を飲んだからだと述べている[16]
おもな作品
習作body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}


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