また、武田国継は会津で西光寺を建立している。惣角はこの武田国継の子孫である。その後、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし、蒲生氏、上杉氏、加藤氏と会津の領主は変遷したが、武田家は会津に留まり、蘆名氏、蒲生氏、加藤氏、そして会津松平氏(保科氏)に仕えた。江戸時代には藩士ではなく神職や指南役として仕えたともいわれる。
蘆名氏は桓武平氏の三浦氏の支族であり、三浦は蘆名氏の本姓である。また、西光寺を建立したり、会津入りしたときの持参目録の伝承から、甲斐国からまとまった資産を持参した可能性もある。
保科氏(会津松平氏)は、甲斐武田氏の有力な家臣であった家系
しかし、先祖武田国次、興平の墓誌があり、村内親戚の武田家から借用したことが判明した。甲斐武田から来た、武術を伝えた証拠はなく、武田国次夫妻の位牌が残されている。西光寺を建てた説は西光寺観世音菩薩縁起から引用したとされるが、この縁起は寺護持会のものであるが消息不明のままで、確認されていない。 惣角の祖父・武田惣右衛門
祖父・惣右衛門
しかし、武田家に過去帳は確認されていない。村内西光寺の惣右衛門の墓碑は、父惣吉が生まれる20年前、西郷頼母が生まれる30年前に死去している。明治戸籍は祖父惣左衛門とあり、すでに死去している。会津の農村は同業の修験(先達)が支配し、陰陽師が活躍した記録はない。武田惣角に気合術(気合・合気)を教えた易者中川万之丞は、陰陽道の式盤占い、呪術を会得していた。 武田惣吉
父・惣吉
訂正として戊辰戦争の名簿は竹田姓、足軽分の農民(明治戸籍は農)、力士隊の任務は大砲の運搬係で150名、重傷者がいても戦死者は確認されていない。 武田惣勝 惣角の長男・武田宗清は、会津坂下町に残り、惣角から学んだ系統の大東流を教授した。しかし、武田惣角は有名になっても故郷会津では武術家に教えていない。大東流の歴史は創作したためと思われる。宗清は村会議員になり、宗家を時宗に譲り武術家に教えていない。 惣角の三男・武田時宗は初め北海道警察に勤務し、後に山田水産に勤務。その傍ら、北海道網走市に大東館を開き、第36代宗家・佐川幸義から大東流合気武道宗家を継承した。時宗には後継者たる男子がなく、晩年、体調を崩してから娘の横山信子を次期宗家として発表したが、まもなく大東館は後継者問題で混乱し、分解してしまった。 宗清の曾孫・武田宗光は現在も会津坂下町で大東流合気柔術教室を開いている。宗光は、初め会津坂下町で宗清が父の惣角から学んだ系統の大東流を祖父から指導されたが、後に時宗やその高弟の指導も受けている。時宗は山田水産を定年退職後、網走市から会津坂下町に通って宗光に指導する事もあった。 明治戸籍、武田家同居人の藩士佐藤金右衛門は御供番(藩主護衛役)で、武芸十八般、御式内(柔術)を教えた。4歳上の孫忠孝は武田と小野派一刀流渋谷東馬道場に通い、師範代武田善十郎に教えを受けた。孫コンは武田の初婚の妻で、テル、宗清を生んだ。『佐藤家自伝』、円蔵寺の「小野派一刀流渋谷東馬門徒」納[2] 昭和62年、大東流合気武道10周年記念誌が会津に公開された。郷土史家が調査した結果、大東流の歴史は先祖、藩政時代の身分など否定的なものが多い。戦前の武術界は官尊民卑の風潮があり、保科近悳に相談し大東流中興の祖に仮託・創作したものと判明した。武田は会津の軍隊・警察署・道場で教えなかった。小説で有名になっても、会津の大東流組織は衰退して指導者は育っていない。地元では大東流創始者と高く評価されており、大東流発祥の記念碑建立、漫画などの映像作品を期待している。
兄・惣勝
子孫
エピソード
代筆
幼いころに寺子屋に行くことを嫌い、「自分は一生字を書かない。他人に書かせる立場になる」と誓ったため、字が書けなかった[3]。父の惣吉は「お前のために字を書く者がいるか」と怒ったが、後に裁判官、警察署長、陸海軍高官など社会的地位の高い人物が惣角の弟子、あるいは後援者となり、弟子達に代筆をさせていた。但し後に弟子による証言によると、文字を読むことは出来た様で、新聞を読むなど最新知識の取得に熱心であった。
猜疑心
猜疑心が強く、隙を与えることを嫌った。食物は相手が毒見をするまで食べなかったという。息子の武田時宗を伴って剣道家の高野佐三郎の家を訪ねた際も、差し出された菓子を食べず、時宗が高野の前を歩くと「高野に後ろから抱きつかれて刺されたらどうするんだ」と叱った[4]。