武田信虎
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注釈^ 『高白斎記』は直接明応7年正月6日生まれであることを記述しているが、『大井俣神社本紀』は具体的な日付を欠くものの天文8年に信虎が42歳の厄年に息子の晴信を大井俣神社(現在の大井俣窪八幡神社)に派遣して大規模な祈祷や修繕を行ったとするものである(逆算すると明応7年生まれとなる)。一方の『武田信虎誕生疏』は理由は書かれていないものの天文8年の信虎の誕生日に大規模な祈祷を行ったとする内容である。平山はこの両者の記事は無関係ではなく、天文8年正月6日に42歳の誕生日を迎えた信虎が国内の寺社に厄年の祈願をさせたことを意味しているとする。
^ 『甲斐国志』によれば双方合意の上で、信虎が隠居したとされる。
^ 晴信は家督相続に際して官途名を「左京大夫」から「大膳大夫」に改めており、信虎期の外交方針を転換し、信濃諏訪氏との関係を手切とし、信濃侵攻を本格化させ山内上杉氏とも敵対していく。
^ 此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。余リニ悪行ヲ成サレ候間、カヨウニメサレ候。サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ(『妙法寺記』)。
^ 山科言継は弘治2年(1556年)に駿河へ下向しており、翌弘治3年2月25日の連歌会においては信虎の子信友が参加している。
^ 駿河時代に誕生した娘。その下に京都で誕生した娘がおり、父の死後に武田勝頼に引き取られて武田氏滅亡時に死去したとみられ、『信長公記』に登場する「信虎京上臈のむすめ」はその娘と推定されている[64]
^ 当時の勝頼は東美濃で織田信長と対峙して、2月6日に明知城を落としている。それから1か月後には信虎が死去していることから、信虎と勝頼の対面は2月の限られた時期に限定されることになる(平山優は2月15日頃の出来事と推測する)[71]
^ ただし、高遠に禰津常安の邸宅があったとする記録はなく、高遠で死去したのが誤りなのか、禰津屋敷で死去したのが誤りなのかの可能性があるという[72]

出典^甲斐国志
^ 平山(2006・A)、p.55
^ 秋山敬「武田信虎の生年について」『武田氏研究』第35号、2006年。 
^ 平山 2019, pp. 18?20.
^ 廣瀬廣一『武田信玄伝』紙硯社、1944年。 
^ 平山 2019, pp. 14?17.
^ 平山(2006)、p.2・@
^ a b c d e 平山(2007・@)、p.55
^ a b c 丸島(2007・@)、p.117
^ 平山(2006)、pp.2 - 3
^ 平山 2019, p. 82.
^ 平山(2006)、p.3
^ a b 平山(2007・@)、p.56
^ a b c d 平山(2007・@)、p.57
^ a b 平山(2007・@)、p.58
^ 平山(2007・@)、pp.58 - 59
^ a b 平山(2007・@)、p.59
^ a b c d 丸島(2007・@)、p.118
^ 平山(2007・@)、pp.59 - 60
^ a b c d 平山(2007・@)、p.60
^ a b c d e f 平山(2007・@)、p.62
^ 平山(2007・@)、p.60 - 61
^ a b c d 丸島(2006・@)、p.119
^ 『高白斎記』『王代記』
^ 丸島(2007・@)、pp.119 - 120

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