2019年末に新型コロナウイルスが市内で発生、同ウイルスによる肺炎が大流行し、翌2020年1月23日に武漢市全体が(中国政府によって)事実上封鎖(ロックダウン)された[18][19]。世界中の人々の注目の場所となり連日のように武漢市の状態が国際報道で扱われる状態となった。「新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)」も参照
武漢市の政治機関および首長は以下のようなものである。 武漢市の市委書記は通常、中国共産党湖北省委員会の副書記及び武漢市人民代表大会常務委員会の主任も兼務するので、省の指導陣においては湖北省省委書記と湖北省省長に次いで序列3位である。 中国地名の変遷
政治機関・首長
中国共産党武漢市委員会:市の共産党指導部である。中国共産党武漢市委員会書記(略称「市委書記」、副省・部級)は市の首長。
武漢市人民政府:行政機関であり、市役所に相当する。武漢市人民政府市長(略称「市長」、副省・部級)は市の行政上の長。
武漢市人民代表大会:市の国家権力機関及び議決機関であり、市議会に相当する。
中国人民政治協商会議武漢市委員会:政治協議機関である。
武漢市監察委員会:監察機関である[20]。
武漢市中級人民法院:司法機関であり、地方裁判所に相当する。
武漢市人民検察院:検察機関であり、地方検察庁に相当する。
武漢市委と武漢市政府
中国共産党武漢市委員会役所の正門
武漢市人民政府役所の正門
歴史
建置周
使用状況武漢市
周沙
春秋沙
戦国沙
秦沙糟ァ
前漢沙糟ァ
後漢沙糟ァ
三国沙糟ァ・夏口
西晋沙糟ァ・夏口
東晋十六国沙糟ァ・夏口
汝南県・夏口
南北朝汝南県・夏口
隋江夏県・漢陽県
唐江夏県・漢陽県
北宋/遼鄂州・漢陽軍
南宋/金鄂州・漢陽軍
元武昌路・漢陽府
明武昌府・漢陽府
清武昌府・漢陽府
中華民国武昌市・漢口市
武漢特別市(1927年)
武昌市・漢口特別市(1929年)
武昌市・漢口市(1931年)
武昌市・漢口特別市(1932年)
武昌市・漢口市(1945年)
武昌市・漢口院轄市(1947年)
現代武漢直轄市
武漢市(1954年)
先史時代
新石器時代
武漢の歴史は6000年前の新石器時代に遡る。東湖の畔にある李白放鷹台遺跡から穀物の殻が混入した建材と見なされる土の塊と、石斧や漁猟用モリなど磨製石器が出土された。黄陂区の張西湾古代集落遺跡は4300年前の古人類が生活した重要な遺存である。
古代
殷・周
黄陂区の盤龍城遺跡には紀元前18世紀?紀元前14世紀前期の殷・方国都邑が保存され、長江流域で発見された唯一の殷代都市遺跡として知られる。
周・春秋・戦国時代に武漢が楚国に支配される。
秦・漢・魏晋南北朝
秦代には南郡に属する。
武漢が正式に一行政単位になるのは前漢であり、沙糟ァが置かれ、江夏郡に属する。後漢末年に、当時の荊州牧劉表は黄祖を江夏太守に任命し、郡治を漢陽の亀山にし、そこに却月城が建てられた。却月城が武漢の市街地にある最初の城となった。223年(黄武2年)に、孫権は曹丕と戦う為、武昌の蛇山に夏口城を築いた。城内の黄鵠磯にある物見櫓はのち、「黄鶴楼」と名づけた。
晋代に武昌郡と改められ、沙糟ァに郡治が置かれた。それは武昌の名の始まりであった。同じ時代に長江の北側に漢陽があり、長江を挟んで向かい同士の二つの街は「双城」と称された。
南北朝時代に、夏口は郢州に拡張され、郢州の州治となった。
隋・唐
隋の時代に、武漢地区で江夏県と漢陽県が置かれ、それぞれ武昌・漢陽をもって治所にする。
唐の時代に江夏と漢陽はそれぞれ鄂州と?州の州治に再び昇格され、長江沿岸の重要な商業都市となった。多くの詩人は武漢を遊歴し、詩作を詠った。その中には李白が黄鶴楼に登り、作った詩もある。この詩に由来する「江城」という武漢市の雅称が広まった。
一為遷客去長沙 西望長安不見家黄鶴楼中吹玉笛 江城五月落梅花 ? 李白『与史郎中欽聴黄鶴楼上吹笛』
宋・元・明・清明代の漢陽と武昌を描く「江漢攬勝図」。左は武昌、右上は漢陽、右下は漢口。武昌の河沿いに立つのは明代の黄鶴楼である。
宋の時代に武昌が鄂州に属し、漢陽が漢陽郡に属した。南宋の時期に岳飛は鄂州に8年間駐軍し、そこを拠点に北伐の師を興した。
元の至元18年(1281年)に、武昌が湖広行中書省の省都となり、初めて第一級行政区域の治所となった。
明代に武昌府は湖広承宣布政使司の省都となり、太祖の六男の朱は楚王に封じられ、武昌に就藩した。成化年間に、漢江の長江への合流口が漢陽の南から亀山の北側に変わり、嘉靖年間に漢江の新流路の北岸で新都市の夏口鎮が形成し、後に漢口鎮と改称された。明末清初に漢口鎮は朱仙鎮・景徳鎮・仏山鎮と合わせて、「四大名鎮」と数えられた。それ以来、漢口は「楚中第一繁盛」な都市とも称され、全国有数の水陸交通要衝となり、「九省通衢」という雅称がつけられた。また、明から武昌と漢陽をあわせて武漢の名が始まり、商業都市として発達した。
清代の初頭に武昌府は引き続き湖広省の省都であったが、康熙3年(1664年)に布政司が湖北省と湖南省に分割されたから湖北省の省都となった。ただし、湖北・湖南両省の軍政と民政を統括する湖広総督の官邸は引き続き武昌に置かれた。清末に、漢口が漢陽から分離し、夏口庁となった。以降、「武漢三鎮」と呼ばれると共に、三都市が鼎立する時代が始まった。
近代1938年に鳥瞰図絵師・金子常光
1858年の天津条約により漢口は開港され、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本が相次いでそこで租界を設置した。