武漢国民政府
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4月18日、?介石は江蘇省南京に反共を掲げる新しい国民政府を組織して、共産党の影響の強い武漢国民政府から離脱した[8][10]。?は、国民党内から共産党員やその同調者、国民党左派などを摘発し、逮捕ないし殺害する「清党運動」を広げていった[8]

汪兆銘は武漢政府に残った[11]。4月下旬、武漢の漢口埠頭には英米日仏伊などの軍艦計42隻が揃い、武漢政府に威圧を加えた[12]。武漢駐在の外国企業は活動を停止し、企業家たちは武漢を離れ、政府は破産状態に陥りかけた[12]。こうしたなか、6月1日ヨシフ・スターリンからの新しい訓令が中国在留コミンテルンインド人革命家マナベンドラ・ロイのもとにもたらされたことを契機として、汪も変心する[2][11]。ロイはこの秘密電報を汪兆銘に示し、訓令の承認をせまったが、訓令はきわめて内政干渉の度合いが強く、中国の主権を大きく侵害し、私有財産を否定する内容であった[2][11][12][注釈 1]。中国における革命運動の激化は、かえって汪兆銘に共産党への強い警戒心を植え付けさせ、反革命の立場に立たせることとなった[1][2][7][11]。汪は7月に入って共産党と絶縁し、武漢にて清党工作を進めた[7][11]7月13日、共産党はコミンテルンからの指示を受けて武漢政府から退去し、7月15日、中国国民党は共産党を批判し、従来の容共政策の破棄を宣言して第一次国共合作はここに崩壊した[11][12]
武漢政府の瓦解宋慶齢

「反共産党」の立場で汪と?の意見が一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一がスケジュールにのぼり、?介石が一時的に下野することを条件に両政府は合体することとなった[7][11][13]。こうしたなか、孫文未亡人の宋慶齢のみは国民党のなかにあって容共路線の継続を主張し、ソビエト連邦に亡命した[13]。1927年9月、武漢政府は瓦解し、南京国民政府に合流した[13]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 革命軍将校の土地を除いて土地革命を遂行せよ。信頼できない将校を一掃し、2万人の共産党員を武装し、5万人の労農分子を選抜して新しい軍隊を組織せよ。国民党中央委員会を改造し、古い委員を労農分子に交代させよ。著名な国民党員を長とする革命法廷を組織して反動的な将校を裁判にかけよ、というのがコミンテルンからの訓令であった。小島・丸山(1986)p.119

出典^ a b c 里井(1975)p.155
^ a b c d e f g h i j k 上坂(1999)上巻pp.88-118
^ a b c d e f コトバンク「汪兆銘」
^ a b c d 有馬(2002)pp.79-82
^ a b c 小島・丸山(1986)pp.110-112
^ a b 久保(1998)pp.382-385
^ a b c d e f g h i j 宇野(1980)pp.462-463
^ a b c d e 久保(1998)pp.385-388
^ a b 保阪(1999)pp.119-123
^ 小島・丸山(1986)pp.115-118
^ a b c d e f g 小島・丸山(1986)pp.118-120


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