武満徹
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注釈^ これは国際的に通用した作曲家に師事した経歴がないという意味であって、先生が誰もいないということではない。平尾貴四男に入門を志願したが、断られている[1][2]
^ 武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』(2006年、小学館)の中に、編集部が武満の小学生時代の同級生から得た証言として、武満が小学生のときに音楽教師から目をかけられ、放課後にピアノを習っていたというエピソードなどが掲載されている(pp.244-246)。この経験が後に独学で作曲やピアノに取り組む下地になっていたことが推察される。
^ ただし、後年の武満は箏をあまり好まなかった(楢崎洋子 2005, p. 12)。
^ フランスは当時の日本の敵国であったため。
^ 何らかの原因でジョセフィン・ベーカーだと思いこみ、長らくそう記していた。立花隆に指摘されて以来一時期は訂正していたものの「客観的事実より、自分の記憶の中の事実を大切にしたい」として、ベーカーに戻している(立花隆「音楽創造への旅」『武満徹全集 第2巻』2003年、小学館)。
^ 「2つのレント」を一言で一蹴した山根ではあったが、必ずしも武満の創作を否定的に見ていなかったようで、例えば初演当初あまり評判が芳しくなかった「弦楽のためのレクイエム」については「外見がまずく評判が悪いかもしれないが自分は理解できる気がする」等と論評を書いている。(武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』pp.46-47(2006年、小学館)
^ 毎日放送の音楽ディレクター、訳書『バーンスタイン物語』
^ ストラヴィンスキーは「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と称賛したといわれる(秋山邦晴『最新名曲解説全集7(管弦楽曲IV)』p.458(音楽之友社)。
^ この頃の作品、クーセヴィツキー財団からの委嘱によって作曲された弦楽合奏のための「地平線のドーリア」(1966年)は、邦楽器は一切使用していないものの、雅楽での音の動きが反映されている(楢崎洋子 2005, p. 84)
^ この時期の闘病日記が死後に発見された。また、娘のために、さまざまな料理のレシピをイラストつきで記していた。これらは『サイレント・ガーデン-滞院報告・キャロティンの祭典』(新潮社)で見ることができる。
^ 直接の死因は間質性肺炎(楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、他)。ピーター・バート『武満徹の音楽』(音楽之友社)では、がんとなっている。
^ 死の前日、大雪が降り、妻は見舞いに訪れることができなかった。武満は訪れる見舞客も無いので、ラジオを聴いたり本を読んだりして一人静かに時間を過ごしていたが、偶然にも、武満が愛してやまなかったバッハの「マタイ受難曲」がNHK-FM放送で放送されて、武満はこの大曲を深い感動とともにしみじみ聴くこととなる。この偶然を妻は、後に深い感慨を持って回想している。
^ 当時、政治と音楽との関わり方を模索していた高橋悠治が同季刊誌で様々な音楽家からアンケートをとった中で武満は否定的な見解を示した。このことなどが原因で長年親交のあった武満・高橋との関係が一時的に疎遠になった。このエピソードの顛末については高橋自身が青空文庫で公開した『音楽の反方法論序説』18や谷川俊太郎との対談『谷川俊太郎が聞く 武満徹の素顔』pp.56-58(2006年、小学館)などに詳述。
^ 同作品の葬送行進曲がマーラー風なのは「黒澤さんへの皮肉」とも武満は語っている。
^ 谷川俊太郎によって歌詞がつけられ、『MI・YO・TA』というタイトルの作品として発表された。この題名は、武満が長野県御代田町の山荘で作曲活動を行っていたことに由来する。
^ 高橋は武満から「祈りとしての音楽」と「バッハをピアノで弾く」というテーマでコンサートを頼まれていた。演奏が終わって拍手が起こった時、高橋悠治は礼をせず、代わりに「閉じた眼II」の黄色い楽譜を高々と掲げて客席に示した。
^ 小学館が監修者を明らかにしなかったのは、この全集が製作委員会方式をとっているからである。名義を出すと、武満の版権を所持しているショット社、サラベール社、ペータース社から確実に監修者個人へ版権料を請求される。また武満は膨大な映画音楽を残しており、映画会社からも版権を請求されるため、監修者を開示するのは金銭的に不可能だからである。

出典^ 「ていくおふ」No.64 1993年11月 ANA総合研究所、ANAホールディングス株式会社、ひとはいかにして作曲家となるか
^ “武満徹”. history-of-music.com. history-of-music.com. 2023年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月3日閲覧。
^ 武満 義雄とは - コトバンク
^ a b c d e f g 河合隼雄『あなたが子どもだったころ』武満徹さんと(講談社文庫、1995年5月20日)
^ 楢崎洋子 2005, p. 12.
^ 楢崎洋子 2005, p. 18
^ 楢崎洋子 2005, p. 8, 21.
^ a b c 『新々実力者の条件』, p. 211
^ 楢崎洋子 2005, p. 19.
^ 『新々実力者の条件』, p. 212.
^ 『新々実力者の条件』, p. 210.
^ (楢崎洋子 2005, p. 21) ただし、武満はこの時期に多くの病気を抱えており、入学試験の許可が芸大から出たかどうかは異説もある。
^ 楢崎洋子 2005, p. 8-13.
^ a b c 『新々実力者の条件』, p. 224
^東京新聞』1950年12月12日付
^ 「日本の映画音楽を語る 早坂文雄から武満徹まで」 2018年7月4日 03:16:16 UTC閲覧
^ 楢崎洋子 2005, p. 84.
^ 楢崎洋子 2005, p. 101.
^ 楢崎洋子 2005, p. 119
^ 楢崎洋子 2005, p. 129.
^ 経緯については ⇒本人サイトの「新創作ノート」1?7詳述。
^ 川口義晴 石川セリ『MI・YO・TA』(DENON)1996年12月 ライナーノーツより
^ 岩城宏之対談集『行動する作曲家たち』p.33、岩城との対談における武満の発言より。(1986年、新潮社)
^ 日本音楽学会第57回全国大会議事録より。音楽学者という立場で話したい。まず武満徹論と武満徹研究とを分けたい。世に武満徹論は氾濫していて、いわゆる研究者が出している書物も 「論」にすぎないと思う。武満徹研究はまだなされていないというのが私の主張。
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