武昌蜂起
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その一方で、鉄道国有化に対して何もしようとしない湖南省と湖北省は、地元の報道から批判されていた。鉄道危機が激しくなるにつれて、大衆の清朝廷に対する信頼は、悪化し続けた[10]
事件の経過
前兆孫武

武漢地域には、文学社共進会という二つの革命グループがあった。これらのグループは、それぞれ蒋翊武と孫武が率いていたが、彼らは武漢での革命のための司令官と参謀長として密接に連携して行動していた[11]。1911年9月、湖北新軍の一部が四川の保路運動鎮圧のために派遣され、湖北地区の守りが手薄になったのをみた湖北地区の革命家たちは、事を起こす機会をうかがっていた。文学社と共進会は、次の蜂起の際の協調行動の可能性も視野に入れて、同盟会との協議を始めた。蜂起の日は、当初は中秋節にあたる10月6日に設定されたが、後になって準備が整わないため延期された[12]。10月9日、孫武が漢口のロシア租界で爆弾の製造を監督しているとき、その内の一つの爆弾が意図せずに爆発し、孫武も重傷を負った。孫武が入院した際に、病院職員が彼の身分証を発見し、清朝廷に通報した[13]
新軍の反乱捕らえられた革命家

革命の計画についての捜査が進むにつれて、武昌駐屯の新軍中の文学社メンバーが清朝官憲に逮捕される危険が迫っていた。文学社の蒋翊武は直ちに決起することを決めたが、その計画は湖広総督瑞澂に漏れた。瑞澂は決起の鎮圧を命じ、10月9日に漢口で同盟会の党人20名が逮捕されて武昌に送られ、10日に武昌でも73名が逮捕され、10日朝には軍籍の彭楚藩劉復基楊宏勝の3名が総督公署の前で斬首に処された[13]。「党員名簿」が官憲の手に入ったという噂もあり、新軍内部では逮捕処分されるおそれのため、非常な動揺が起こった。

10月10日夜9時、金兆龍程定国という2名の革命派が就寝命令違反のトラブルから上官の陶啓勝を射殺。この混乱に乗じ、少数の爆薬をもとにして熊秉坤と工兵中隊が湖広総督の清朝の警備隊に対して決起した。蔡済民など第29大隊の兵士がそれに応えて合流し、武昌城内に向かった。南湖の騎兵が同じ頃に城外から押し寄せ、蛇山の高所から総督公署に大砲を撃ち込んだ。激しい戦闘の末、総督・瑞澂は漢口の租界へ逃げ、第八鎮統制・張彪も軍艦で総督の後を追った。翌日11日の正午には武昌全城が反乱軍の手に入った[13]。総督が逃亡したため、清軍の指揮統制は崩れた。10月10日夜から11日正午までに「500人以上の満州兵が殺され」、「300人以上が捕らえられた」[14]
湖北軍政府の設立

10月11日、反乱軍は湖北省を代表する軍政府を設立した。これを湖北軍政府(または鄂軍都督府)という。反乱軍は、新軍の高級将校の一人であった黎元洪を説得して、暫定の都督(軍政府のトップ)に据えた[13][15]。黎元洪は当初その考えには反対したが、最終的には反乱軍に説得されて同意した[14]。新たに設立された軍政府は、外国勢力はこの蜂起に干渉しないことの確認を取り、他省にも同様の蜂起を呼びかけつつ、「鉄血十八星旗」と呼ばれる旗を掲揚した[16]

10月12日には、革命軍は湖北省の他の地域に進軍し、その過程で漢口、漢陽も占領し[15]、13日に漢口領事団は革命軍を交戦団体と認めて中立を宣言した。16日都督府臨時組織令が発せられ、黎元洪は総司令を兼ねることとなった。18日に革命軍は張彪が指揮する政府軍に攻撃を開始し、漢口大智門駅から?口に追い、武昌の砲台は政府艦隊を下流に撃退した。
陽夏の戦い詳細は「陽夏の戦い」を参照1911年、漢口へ移動中の北洋軍

反乱を受けて、清朝は北洋軍袁世凱に助力を求め、北洋軍は武昌へ進軍した。一方、革命軍側は11月はじめに黄興が武漢に到着し指揮を引き継いでいた。その後、北洋軍は革命軍の陣地を攻撃し、朝廷軍は11月1日には漢口を、11月27日には漢陽を奪回した。これら2都市を奪回した後、朝廷軍の攻勢が止まった。その理由は、袁世凱が革命軍と秘密裏に交渉を始めたためである[16][17]
その後詳細は「辛亥革命」を参照孫文袁世凱

武昌起義は多くの革命リーダーたちにとっても寝耳に水であった。黄興や宋教仁も武昌の蜂起には間に合わず参戦できなかった[15]孫文は、華僑たちに蜂起が起こった際の財政支援を求めるために米国で遊説中であった[18]。孫文は黄興から電報を受け取ったが、その暗号を解読できなかったため、彼は翌朝の新聞で蜂起を知った[18]。武昌での蜂起が成功した後、革命家たちは他省もこれに続くよう依頼する電報を打った。それを受けて華南、華中の18省は1911年12月末までに清朝から離脱することに同意した[19]

1911年12月、孫文は中華民国臨時大総統選挙に立候補するため中国に帰国し、当選した[20]。1912年1月1日、清朝から離脱した各省の代表者たちが会合を持ち、中華民国の建国を宣言し、ここに孫文は初代大総統として宣誓した[21]。中華民国は袁世凱と交渉し、清朝廷を降伏させる見返りとして袁世凱に大総統の地位を与えた。1912年2月12日、隆裕皇太后は皇帝溥儀の名の下で清皇帝の退位を発表し、これにより清帝国は終焉した[22]

現在、中華民国では武昌起義の起こった10月10日を国慶日(通称「双十節」)と定め、台湾域内および世界各地の華僑コミュニティ等では毎年祝賀行事等が開催されている。
脚注^ 武昌起義(コトバンク。ブリタニカ国際百科事典)
^ Bergere & Lloyd 1998, p. 99.
^ Esherick & Wei 2013, p. 90.
^ Esherick & Wei 2013, p. 96.
^ Esherick & Wei 2013, p. 99.
^ Gao 1997, p. 56.
^ 保路運動(コトバンク)
^ Esherick & Wei 2013, p. 98.
^ Esherick & Wei 2013, p. 89.
^ Esherick & Wei 2013, p. 13.
^ Esherick & Wei 2013, p. 140.
^ Esherick & Wei 2013, p. 165.
^ a b c d Esherick & Wei 2013, p. 107.


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