武帝_(漢)
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蘇武が匈奴に囚われたのがこの時期の紀元前100年のことである[18][19]。続けて紀元前99年に李広利と李陵をそれぞれ3万・5千の兵を預けて匈奴に攻め込ませたが、これも失敗に終わる[18]。なお李陵は匈奴に奮戦の末に降伏しており、李陵を弁護した司馬遷宮刑に処されたのがこの時である[23]。さらに紀元前97年に出撃するが、戦果無く終わる[18][24]。数年空いて紀元前91年に出撃するも李広利が匈奴に投降するという結果に終わる[18][25]

結局のところ、第二次の匈奴戦争はこれといった戦果を上げることができず、ただ戦費と人命を費やすだけに終わった[26]。この後で武帝は輪台の詔を出して、その後は外征を行わないこととした[26]
西域

対匈奴戦が始まる前[注釈 2]に、かつて匈奴に敗れて西へと逃げた大月氏と同盟を結ぶために張騫西域に派遣していた[29][28]。派遣といっても当時の漢には西域の情報は殆どなく、どこにどのような国があるのかもよくわかっておらず[29]、大月氏にしろどこにいるかは全くの不明であった[30]。途中匈奴に捕まり、十余年間抑留されるもそこから脱出して西域に至り、大宛康居などの国を通り、ようやくアム河の北にいた大月氏の国へとたどり着いた[29][31]。しかし大月氏はこの地で大夏を服属させて豊かな生活を送っており、すでに匈奴に対する復讐心は無くなっていた[32][33]。同盟は失敗に終わり、張騫は漢へと帰国の途についた。途中でまたしても匈奴に捕まるが、今度は1年ほどで脱出して長安へたどり着いた。出発から13年[注釈 2]、当初100人ほどいた一行は帰還のときには張騫の他に従者が一人だけになっていた[34][33]。その後に、張騫は続けて身毒(インド)を目指して出発したが、途中で頓挫[34][35]。さらに西域の烏孫と同盟を結ぼうと再び派遣されたが、烏孫との同盟もならずに終わる[34][36]

月氏・烏孫との同盟はならなかったものの張騫のもたらした西域の知識は貴重なものであり、また西域諸国側にしても東に漢という大国があることをはじめて知ったのである。これにより西域諸国は漢に使者を送るようになり、それに伴いこの地に新しい交易路が開かれることになった[34][37]。これが後にシルクロードと呼ばれることとなる[38]
南方・東方南越衛氏朝鮮

南の南越国の崩壊の後に漢人の趙佗によって建てられた国で、文帝時代に漢の外藩国[注釈 3]として服属していたが、武帝の代になり、漢朝廷は内藩国となるように南越に圧力をかけた[14][40]。漢人の南越王趙興とその母の樛太后はこれを承諾しようとしたが、越人の宰相呂嘉がこれに反発して、王と宰相の間で対立が深まった[14][41]。南越の民は大半が越人であるので呂嘉を支持し、呂嘉は紀元前113年に趙興と樛太后を殺して趙興の庶兄の趙建徳を立てて南越の実権を握った[14][42]。武帝はこれに対して紀元前112年に路博徳楊僕を将軍とした10万の遠征軍を送り、南越を滅ぼした。その地に新たに9郡を設けた[14][43]。またこの出兵の際に西南地方にいる異民族たちに出兵を要請したが、その使者が殺されたので漢はこの地を征服し、ここにも郡を置いた[44][45]


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