結局のところ、第二次の匈奴戦争はこれといった戦果を上げることができず、ただ戦費と人命を費やすだけに終わった[26]。この後で武帝は輪台の詔を出して、その後は外征を行わないこととした[26]。 対匈奴戦が始まる前[注釈 2]に、かつて匈奴に敗れて西へと逃げた大月氏と同盟を結ぶために張騫を西域に派遣していた[29][28]。派遣といっても当時の漢には西域の情報は殆どなく、どこにどのような国があるのかもよくわかっておらず[29]、大月氏にしろどこにいるかは全くの不明であった[30]。途中匈奴に捕まり、十余年間抑留されるもそこから脱出して西域に至り、大宛・康居などの国を通り、ようやくアム河
西域
月氏・烏孫との同盟はならなかったものの張騫のもたらした西域の知識は貴重なものであり、また西域諸国側にしても東に漢という大国があることをはじめて知ったのである。これにより西域諸国は漢に使者を送るようになり、それに伴いこの地に新しい交易路が開かれることになった[34][37]。これが後にシルクロードと呼ばれることとなる[38]。
南方・東方南越衛氏朝鮮
南の南越国は秦の崩壊の後に漢人の趙佗によって建てられた国で、文帝時代に漢の外藩国[注釈 3]として服属していたが、武帝の代になり、漢朝廷は内藩国となるように南越に圧力をかけた[14][40]。漢人の南越王趙興とその母の樛太后はこれを承諾しようとしたが、越人の宰相呂嘉がこれに反発して、王と宰相の間で対立が深まった[14][41]。南越の民は大半が越人であるので呂嘉を支持し、呂嘉は紀元前113年に趙興と樛太后を殺して趙興の庶兄の趙建徳を立てて南越の実権を握った[14][42]。武帝はこれに対して紀元前112年に路博徳と楊僕を将軍とした10万の遠征軍を送り、南越を滅ぼした。その地に新たに9郡を設けた[14][43]。またこの出兵の際に西南地方にいる異民族たちに出兵を要請したが、その使者が殺されたので漢はこの地を征服し、ここにも郡を置いた[44][45]。