523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は513年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとして、淳陀は倭国で生まれ、そのまま倭国に留まっていたと主張する説がある。
桓武天皇(今日の皇室の祖)の生母である高野新笠は、武寧王を遠祖とする渡来人系の和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、武寧王の没年(523年)および純?太子の没年(513年?)と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため、疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。新笠は皇后ではなかったが(皇后は井上内親王)、桓武天皇の生母として皇太夫人とされ、死後に皇太后と追贈された。 1971年に忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、武寧王陵として王墓が特定された。墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」 と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキ(高野槙)と判明したことも大きな話題となった。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。詳細は「武寧王陵」を参照 和歌山県隅田(すだ)八幡神社所蔵(東京国立博物館寄託)の国宝「人物画像鏡」の銘文に以下ある。癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟 「癸未年」(503年)、「男弟王」(武烈か継体か)が「意柴沙加宮」(忍坂宮、石坂宮)にいたとき、鏡を作らせて男弟王の長寿を祈って鏡を献上した「斯麻」が知られる。これは武寧王のことであるとの見方が強い。
武寧王陵
人物画像鏡
癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る
登場作品
テレビドラマ
帝王の娘 スベクヒャン(2013年-2014年・MBC)演:イ・ジェリョン
脚注^ 宇治谷 1988, p. 343.
^ 宇治谷 1988, p. 292.
^ 盧重国 (2005年). “5世紀の韓日関係史?『宋書』倭国伝の検討?”
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