武家_(家族)
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豊と幸四郎はテレビタレントとしての活動も行い、豊は1995年にアイドル歌手佐野量子と結婚した。幸四郎は2017年2月末で騎手を引退し、調教師に転身した。
武平三系ほか

彦七の四男・平三は騎手として目立った実績はなかったが、調教師としては重賞20勝を含む通算735勝を挙げた有力者であった。他方、管理馬への禁止栄養剤の投与による3年間の管理停止歴なども持つなど、不名誉な面もあった。武英智(騎手時代)

平三には3人の男子と1人の女子があり、長男・宏平麻布獣医大学を卒業後に調教助手として平三を補佐し、調教師として独立後GI競走で3勝を挙げている。三男・永祥馬事公苑花の15期生の一人として1967年に騎手デビュー。通算152勝を挙げた。永祥の子・英智も中央競馬で騎手として活動し、平三から三世代に渡る騎手家系となっている。英智はその後調教助手を経て2017年より幸四郎とともに調教師となった。次男の勇は北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)で武牧場を経営していたが、2003年に何者かによって殺害された[15][16][注 2]。その死後も牧場は存続し、2009年には生産馬スリーロールスが宏平の管理で菊花賞に優勝した。長女は、永祥と騎手養成所で同期生だった作田誠二に嫁いでいる[10]

彦七の三男・輔彦は、調教師として桜花賞・菊花賞のクラシック二冠を制したブラウニーや宝塚記念優勝馬ホマレーヒロを手掛けたほか、弟子に宮本悳田島日出雄といった騎手を輩出した[17]加藤敬二が孫弟子に当たる。尾形藤吉の元で騎手となった五男・富三は目立った業績を残しておらず、1944年5月7日の東京競馬場での春季能力検定競走(第7競走・呼馬障害)でイソノマツに騎乗して落馬、死亡している。
系統
武彦七
|武芳彦||
武邦彦|||武伸(元同志社大学ラグビー部選手でスポーツライター)|||次男(一般人)|||武豊量子|||武幸四郎|武房彦|武輔彦|武平三||武宏平||武勇||武永祥|||武英智||長女(一般人)―作田誠二|武富三

騎手は軽量であることが求められるため総じて小柄である中、現役騎手の豊は170cm、騎手経験者だった3人の内、邦彦は身長172cm、幸四郎は177cm、英智は169.5cmと騎手としては長身の家系となっている。
脚注・出典[脚注の使い方]^ 尾形と内藤の師・菅野小次郎は実徳の専属騎手で、馬の調達のためしばしば北海道を訪れていた。(尾形藤吉『馬ひとすじ』(徳間書店、1967年))p.56
^ 2024年現在未解決事件。
^ a b c 岩川(1991)p.107
^ 早坂昇治『競馬異外史 -Sports of Kings ヨコハマに上陸』(中央競馬ピーアール・センター、1987年)p.20
^ “ ⇒鹿児島と函館の友好を…市議会副議長北原さん語る”. 函館新聞社 (2006年9月12日). 2011年6月6日閲覧。
^ 大江(2005)p.99
^ a b c “ ⇒はこだて人物誌 園田実徳”. 函館市. 2011年6月10日閲覧。
^ 『北ぐにの競馬』p.301
^ 『北ぐにの競馬』p.303
^ a b c d 『北ぐにの競馬』p.309
^ 『日本の騎手』pp.7-8
^ a b 四條(1999)pp.132-133
^ 『北ぐにの競馬』p.310
^ a b 寺山(1993)p.259
^ 四條(1999)p.128
^ 『優駿』2000年11月号(日本中央競馬会)p.26 結城恵助「日本競馬小史」
^ “ ⇒武騎手親類の男性殺される”. 共同通信社 (2003年6月9日). 2011年6月6日閲覧。[リンク切れ]
^ “中央競馬を振り返る”. 競馬ニホン. 2024年3月4日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2024年3月4日閲覧。
^ 『日本の騎手』p.24

参考文献

中央競馬ピーアール・センター編『日本の騎手』(中央競馬ピーアール・センター、1981年)


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