武士団
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^ 石井進 1974年 『日本歴史第12巻 中世武士団』 「武士団とは何か」 p.235
^ 下向井龍彦 1985年 「国衙と武士」 『日本通史6 古代5』 p.177
^ 下向井龍彦 1998年 書評 元木泰雄著『武士の成立』 日本史研究 日本史研究会 1998/10
^ 橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』に収録
^ 「致頼・致経あるいは頼親・維衡らは、武士発生史に関する一見解--治安警察の面がゆるむと民間に武力が興る--の説くところとは正反対で、彼ら自身が「治安」の紊乱(びんらん)者として立ち現われてくる。殺人や闘乱を日常茶飯事とするこれらの武士は、ロマンの主人公でも、叙事詩の英雄でもない。ただの散文的、政治史的にはこのうえもなく矮小な存在に過ぎない。」 橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 増補改訂版 p25 同様の記述は『武士の成立 武士像の創出』p20にもある。この高橋の指摘もそれ以降の武士論研究にかなりのインパクトと、そして非難も生み出した。上横手雅敬が「アウトロー的な妙なものと受け取られかねない」と指摘したのもその点に関係しよう。
^ 「家」概念の発端だが未成熟後の「家」の概念と区別するためによく「イヘ」「イエ」と書かれる。
^ 橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 「武士を見直す」 p17
^ 『今昔物語集』でよく言われる
^ 橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 「付論 武士発生論と武の性格・機能をめぐって?諸氏の批判に応える」 p163
^ 橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 付論 p169
^ 上横手雅敬 1972年 『シンポジウム日本歴史5』 「平安時代の内乱と武士団」 p141
^ 竹内理三 『日本の歴史6 武士の登場』 p82
^ 阿部猛 『教養の日本史 平安貴族の実像』 「薨卒伝に見る貴族の諸相」 p110
^ 『類聚三代格』 901年(延喜元年)12月21日官符 (漢文は戸田芳実 「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』 p122)
^ 野口実 『伝説の将軍 藤原秀郷』 p36-38
^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 p29
^ 近藤好和 『騎兵と歩兵の中世史』 p14
^ 近藤好和 「武具の中世化と武士の成立」『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』 p176
^ a b 佐藤進一 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 p193
^ 橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p101
^ 福田豊彦 『東国の兵乱ともののふたち』 p17
^ 源平の争乱の頃、関東の有名な武士として長井斎藤別当実盛、稲毛重成の父・小山田別当有重、川越重頼の父・葛貫別当能隆など、「別当」の肩書きが「庄司」の肩書きと同じぐらい多く見られる。五味文彦は『増補・吾妻鏡の方法』の中で、その「別当」は何の別当であったのかということを問いかけ、『吾妻鏡』1181年(養和元年)7月20日条にある下文の宛所「下す 下総国御厩別当の所」を実例として、国衙の御厩管理部門、または同様な「所」の役職ではないかと推測する。また、『吾妻鏡』の下文は下川辺庄司行平への貢馬の免除であり、彼が牧を所有、あるいは管理していたことが察せられる。
^ 橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 p116
^ 横澤大典 「源頼信-河内源氏の成立」『王朝の変容と武者』 p392、『尊卑分脈』2巻 p316
^ 橋昌明 『清盛以前 伊勢平氏の興隆』 p166
^ 橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 p91
^ 伊丹市文化財保存協会『絲海』第33号、2008年、4頁
^ 戸田芳実 「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』に収録)
^ 石井進 「中世成立期の軍制」 『鎌倉武士の実像-合戦と暮しのおきて』
^ 義江彰夫 「荘園公領体制と武士団」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p152
^ 石母田正 『中世的世界の形成』 新書版 p55
^ 福田豊彦 1973年 『千葉常胤』 p48-52
^ 義江彰夫他 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p95
^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p35
^ 前掲 安田元久 1970年 「東国における武士団」 『武士世界の序幕』 p19-20
^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p59 p71-74
^ 義江彰夫 「国衙支配と兵の登場」 『日本歴史大系3 貴族政治と武士』 p128-129
^ 石井進 「中世成立期の軍制」 『鎌倉武士の実像―合戦と暮しのおきて』 p43
^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p94
^ 福田豊彦 『千葉常胤』 p91
^ 高橋一樹 「中世荘園の立荘と王家・摂関家」『日本の時代史 (7) 院政の展開と内乱』 p185
^ 元木泰雄 『武士の成立』 p194
^ 黒田紘一郎 「古代末期の東国における開発領主の位置」 『千葉氏の研究』 p28
^ 豊田武 『武士団と村落』 p24 尚この区別は豊田武自身がp29で述べるように佐藤進一が1959年の『日本人物史大系』の中でまとめたもので、それまでの和辻哲郎、家永三郎、豊田武らによる長年に渡る論争を収束させ、現在では定説として受け入れられている。論争の過程は、関幸彦 『武士団研究の歩みU』 「主従道徳をめぐる諸学説」に詳しい。
^ 石井進 『日本の歴史12 中世武士団』 p34
^ 「鎌倉遺文」4193:関幸彦 『武士の誕生』 p16-18
^ 「家督」という言葉自体は惣領制の頃から存在する。例えば『吾妻鏡』治承4年8月26日条にある「是重頼於秩父家強為次男流、相継家督」をめぐって戦前・戦後を通じ研究者の間で様々な議論がなされている。ただしここでは現在のイメージでの「家督」として用いた。
^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p191
^ 豊田武 『武士団と村落』 p49
^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 p358
^ 豊田武 『武士団と村落』 p44

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