周(しゅう、690年 - 705年)は、武則天が唐に代わり建立した王朝。先秦時代の周朝や南北朝時代の北周などと区別するため、武周或いは南周とも呼ばれる。武則天は中国の歴史上の唯一の女帝であった。
載初元年(690年)9月9日、唐の先帝睿宗等の6万人以上が国号を改称することを上奏した。武則天は国号を唐から周に改め、国都を洛陽に定め、自らの尊号に聖神皇帝と定めた。神龍元年(705年)、宰相の張柬之等が宮廷で政変を起こし、武則天を退位させた。中宗は復位し、唐朝の旧制を復活させた。同年12月、武則天は上陽宮(中国語版)で没した。享年82。
歴史
武則天の登位』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った[注 1]。
天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ[注 2]。
治世奉先寺大仏
帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた[注 3]。
武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣、狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた[注 4]。また、治世後半期には姚崇・宋mなどの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。 晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け横暴を極めた張易之 武周の君主と年号 肖像廟号諡号姓名生没年在位備考年号陵
滅亡
歴代君主と年号
??斉聖皇帝
(武則天追号)啓??夏の2代君主??
始祖
(武則天追尊)文皇帝
(武則天追号)姫昌紀元前1152年 - 紀元前1046年?周朝の始祖??
?睿祖
(武則天追尊)康皇帝
(武則天追号)姫某
?厳祖
(武則天追尊)成皇帝
(武則天追号)武克己(中国語版)??武則天の玄祖父?節陵
?粛祖
(武則天追尊)章敬皇帝
(武則天追号)武居常(中国語版)??武則天の高祖父?簡陵
?烈祖
(武則天追尊)渾元昭安皇帝
(武則天追号)武倹(中国語版)??武則天の曾祖父?靖陵
?顕祖
(武則天追尊)立極文穆皇帝
(武則天追号)武華(中国語版)??武則天の祖父?永陵
?太祖
(武則天追尊)無上孝明高皇帝
(武則天追号)武士?559年 - 635年?武則天の父?昊陵
?則天大聖皇后武?624年 - 705年690年 - 705年天授690年 - 692年乾陵(中国語版)
如意692年
天后
(中宗李顕改号)長寿692年 - 694年
延載694年
大聖天后
(睿宗李旦追号)証聖695年
天冊万歳695年
天后聖帝
(睿宗李旦追号)万歳登封695年 - 696年
万歳通天696年 - 697年
聖后