武則天
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武皇后は人材の採用に当たっては、身分のみならず才能と自身への忠誠心を重視した。姚崇と宋mは後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いたが、張説は評価の分かれる宰相である。

顕慶5年(660年)、新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。倭国日本)・旧百済連合軍と劉仁軌率いる唐軍が戦った白江口の戦い(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼした(唐の高句麗出兵)が、武皇后の暴政と営州都督の趙文?の横暴により契丹が大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東遼西の情勢はかえって悪化した。

出自を問わない才能を発掘する一方で、武照は娘の太平公主薛懐義・張易之・張昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣許敬宗などを任用し、底なしの密告政治により反対者を排除した。そのために来俊臣・索元礼の徒ばかりか周興と『羅織経』の作者らのような元々法律に通暁した「酷吏」が総じて反対派を監視する恐怖大獄を行った。この状況に高宗は、宰相を招いて武照の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し、皇帝の権力奪還を許さなかった[注 10]

弘道元年(683年)、高宗が崩御すると太子の李顕(中宗)が即位するが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを理由に、太平公主を使って中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじることを余儀なくされた。

武照の専横に対して、皇族は男性・女性を問わず次々と挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈した。民衆は武照に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王が書いたが、その名文に感嘆した武照が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話があるが、そのとき宰相張説は黙って返答しなかった。
登位百美新詠図伝

唐の宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った[注 11]

天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)。
即位後奉先寺大仏

帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた[注 12]。また、長安年間(701?704)に悲田養病坊を設置し、仏僧尼に運営を任せて貧窮孤老を救済させたが、これは光明皇后による悲田院施薬院の設置にも影響を与えたとされる[2]

武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗の時代から彼女が実力を見い出し、重用していた稀代の名臣の狄仁傑である。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた[注 13]。また、治世後半期には姚崇・宋mなどの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの2名は玄宗の時代に開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は、狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。
晩年

晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのはに反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け横暴を極めた張易之・張昌宗兄弟を除くために、神龍元年1月24日705年2月22日)、宰相の張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることになった。しかし、武氏の眷属は李氏宗室を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず命脈を保った。その後まもなく武則天は崩御し、706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。唐代の帝陵は、代始の大乱に勝るとも劣らない幕引きの兵乱のさなか、京兆尹の温韜にすべてが盗掘される羽目にあったが、乾陵のみは発掘予定の夏に激しい雷雨が数晩続き、不成功に終わったという。
諡号

遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったといわれる。唐王朝での諡号はその後も変遷を経る。
唐隆元年(710年)、中宗、天后と改める。

景雲元年(710年)、睿宗、大聖天后と改める。

延和元年(712年)、睿宗、天后聖帝と改める。

開元4年(716年)、玄宗、則天皇后と改める。

天宝8年(749年)、玄宗、則天順聖皇后の諡を追加する。

人物・逸話

武則天は女傑として長く人々の関心を集めてきたため、人柄を伝える多くの逸話が残っている。この項で記したもの以外に、本記事の注なども参照のこと。
出生と外見にまつわる逸話

武則天が生まれて間もない頃、袁天綱という名道士が来て彼女の相を占った際、人相を見た袁天綱が「この子供は必ずや天に昇るであろう」と述べたという伝承がある。その伝承によれば、父が将来の皇后となることを期待して武則天に高度な教育を与え、別名を媚と命名した理由には、乳児としての武則天の容姿が極めて美しかったことだけではなく、その予言を信じたこともあったとされる。

また、史書の伝えるところによれば、少女期の武照は漆黒の髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、そして聡明な頭脳を備えていたとのことである。
改称・改変好き

称号や尊号、都市の名前など、人や事物に対して、伝統的に使用されてきた呼称に改変を加えることを非常に好んだとされる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}顕慶4年(660年)[要出典]には皇帝と皇后をそれぞれ天皇と天后とした。この改称の狙いは、天皇と天后という相互に比肩する字義を持つ組み合わせへと尊号を改めさせることで「皇后が国政に介入しているに過ぎない状況」を「天后が正統かつ正当な支配権を行使している状況」へと変貌させ、現状における自己の政治への介入状況を追認させることにあったと言われる。[要出典][3]地名の改称の例は洛陽を神都とした例や、自らの出身県である文水県を武興県と改めた例などであり、武則天の思想を反映するとともに、皇帝である自身の権威を高めることや、あまり家格の高くなかった生家の武氏の権威を高めることなどを意図したものが見られる。

皇帝の諡号について、古から一字または二字の諡字を与え、「○皇帝」または「○○皇帝」と呼ばれていた。唐代初期にもこの習慣が続いた。最初は唐の高祖は「太武帝」と呼ばれ、太宗は「文帝」と呼ばれた。しかし674年(上元元年)に高宗と武則天は太宗の諡号を「文武聖皇帝」と改め、その後、清朝まで皇帝の諡号はますます長くなる特徴がある。その結局として、皇帝は諡号ではなく廟号と呼ばれる。

武則天は漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創っている。その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどないが、「圀」の字は日本で徳川光圀や、本圀寺に使用されている。この改変は「國」がくにがまえの中に「惑」を含むことを武則天が忌み嫌ったもので、その代替としてくにがまえの中に「八方」を加えたものである。他にも、自らの名の「照」の代替として、空の上に日と月を並べた「?」(明+空)を造字しており、いずれも思想的な理由に基づくものだった。

武則天はまた元号も頻繁に変更した。元号に関しては下記の一覧を参照。
元号

則天文字があるもの(*印の元号以下の使用例参照)は通常の文字に戻した。

證聖元年九月九日:


注:「證聖」は武則天時代の年号の一つ。


天授二年正月初一:

注:「天授」は武則天時代の年号の一つ。「正月初一」は元日。


天后時代

光宅 684年

垂拱 685年 - 688年

永昌 689年

載初 690年

聖神皇帝時代(武周)

天授 690年 - 692年*


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