その後は影山楙倫や、いのまたむつみらと共にカナメプロダクションの設立へと参加[2]。『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の頃には脚本家の首藤剛志に、『プラレス3四郎』では藤川桂介の両者にそれぞれ師事することで、職業脚本家としての様々なノウハウを学びとり、以降は本職としている。ただし、藤川が自著で武上を弟子と書いたことに触れて「藤川の記憶違い」と弟子であることを否定している[3]。
1983年の『さすがの猿飛』第23話「ハチャメチャ? げんまん大戦!」からは、以前から使っていた武上純希のペンネームを公式に用いるようになる。翌年の『Gu-Guガンモ』を機にカナメプロを退社し、フリーの脚本家として活動を開始。現在に至るまでアニメ、ドラマなどを中心に35年以上に渡って活動を続けている。 太字はメインライターを担当した作品。
エピソード
まだ駆け出しの頃『スケバン刑事』シリーズでどれだけシナリオを書いてもそれをプロデューサーや監督にボツにされた。監督の田中秀夫には脚本を床に叩き付けられ、「これのどこが面白いの? 教えてよ」と厳しくダメ出しされたことを述懐している。最初は田中監督と上手く仕事が出来なかったが、長い間その関係が続いた後に、お互いの妥協点が見つかってからはシナリオがスムーズに仕上がるようになったという。また田中は厳しいがそのぶん本が成功した場合とても喜ぶ監督であったという。武上はこのエピソードについては複数のインタビュー[4][1]で語っており、「あの頃があるから今の自分がある。だから東映さんには本当に御恩が有るので、自分が出来る限りのご奉公はしていきたい」とも述べていた。
『ウルトラマンダイナ』のメインライターの最終選考まで残っていたが惜しくも落選。結果的に長谷川圭一のプロットが選ばれたが、パイロット版の脚本には武上が書いたプロットの要素も一部取り込まれている[5]。
『星獣戦隊ギンガマン』の打ち合わせの際に、『ウルトラマンティガ』のスタッフコートを着てきたことがある[6]。
1990年代後半ではウルトラシリーズとスーパー戦隊シリーズを並行して執筆しており、円谷プロダクションのスタッフから作風の違いを指摘されたこともあるが、自身では意識して作風を変えていたわけではなく、それぞれ自身のやりたいことをやっていただけとしている[2]。前者では自身が『ウルトラマン』の直撃世代であることから理想のウルトラマン像を強く抱いていたが、スーパー戦隊シリーズは直撃世代ではなかったため先入観なく楽しんで書いていたと述べている[2]。
特撮の演出家を目指していた時期もあり、特撮研究所の佛田洋から誘いを受けたこともあったが、理系の知識がないことやCG主体の時代になっていくだろうと予想していたことなどから断念している[2]。
主な脚本作品
テレビ
実写作品
世にも奇妙な物語 シリーズ
第1シリーズ「恐怖の手触り」
第1シリーズ「喪服の少女」
第1シリーズ「カウントダウン」
第2シリーズ「もういちど」
第2シリーズ「こけし谷」
第2シリーズ「呪いの紙人形」
第2シリーズ「記憶の沼」
第2シリーズ「赤い雲」
第3シリーズ「いいかげん」
1997年春の特別編「史上最強の転校生」
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