正規空母
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^ 日本海軍は、レキシントン級巡洋戦艦を改造したレキシントン級航空母艦(サラトガ型)も正規空母として認識している[4]。戦史叢書でも「正規空母」として扱う[1][6]。
^ 一例として軍令部が1935年(昭和10年)2月に作成した「昭和16年帝国海軍戦時編制案」では、特空母について秩父丸、浅間丸、龍田丸、大鯨、剣埼型潜水母艦(剣埼、高崎。後日、瑞鳳型航空母艦)を挙げている[11]。
^ 1941年(昭和16年)4月26日時点では、春日丸級特設空母と、橿原丸級貨客船を改造した隼鷹型航空母艦(隼鷹、飛鷹)が「特設空母」に類別されている[7]。
^ 特設航空母艦について、仮装航空母艦[12]、特設空母[13]、特空母[14][15]などと表記した。
^ 一、蘭印方面[13](中略)又右捕虜中ニハ「ラングレー」ノ生存者ヲ含ミシアル所ヨリ推察スルニ二月二十七日爪哇南方海面ニテ爆撃セシ特設空母ラシキ艦ハ「ラングレー」ニシテ沈没センコト確實ナリ(以下略)
^ 「太平洋方面の敵航空母艦の総数は16(米空母の総数は17)、特設空母40計56隻と判断せられるが その正式空母13隻が「トラック」空襲後一週間以内に「マリアナ」に来襲した関係である」という項目がある[22]。
^ (昭和19年10月14日)GFサチ|一五日〇一二五 GF外|GF機密第一四二〇〇三番電[23] 一、十二日 十三日ノT攻撃部隊ノ綜合戰果左ノ通/十二日 空母六乃至八隻轟撃沈(内正規空母三乃至四ヲ含ム)/十三日 空母三乃至五隻轟撃沈(内正規空母二乃至三隻ヲ含ム(以下略)|無電
^ 四、情況判斷ノ誤謬ト「レイテ」決戰指導ノ經緯[24](中略)「註」1、米正規航空母艦十隻ヲ撃沈セルモノト判斷スル旨大本營及海軍ヨリ通報アリ(以下略)
^ 10月25日のサマール島沖海戦で第一遊撃部隊(通称“栗田艦隊”)が実施した戦艦「大和」などの砲撃戦で、日本側がアメリカ軍の「正規空母」数隻と遭遇(撃沈)したと報告している[25]。
^ 栗田艦隊の戦闘速報では“二十五日〇七三〇 1YB指揮官|(宛略)|1YB機密第二五〇七三〇番電 敵ハ空母六隻(正規空母三隻)ヲ基幹トスル機動部隊ナリ 煙幕ヲ展開南東ニ避退我之ヲ攻撃中|無電 ”と報告している[25]。実際は第7艦隊に所属する第77.4.3任務群(クリフトン・スプレイグ少将)のカサブランカ級航空母艦(護衛空母)を「正規空母」と誤認した。
^ サマール沖海戦における第七戦隊(熊野、鈴谷、筑摩、利根)の戦闘詳報では、正規空母(レンジャー型)、巡洋艦改造空母(インディペンデンス型)と報告している[26]。既述のように、実際は護衛空母群である。
^ 制式空母[27] 商船や巡洋艦を改装したものでなく、建艦の當初から航空母艦として設計されたもの。大東亞戰勃發以來、わが航空機の活躍に戰爭様式の變化を認識した米國は、急遽空母の建造に全力を傾注しはじめ、各種に亙つて厖大な建艦計畫を實行しつゝあるが、昭和十八年上半期のみでもエセックス、二世レキシントン、二世ヨークタウン、バンカーヒル、イントレピッド等の制式空母を進水せしめ、更に同年中に三十隻の多數を完成する豫定が立てられてゐる。
^ 同紙では、「九州南東海面に出現した敵機動部隊に對する攻撃戰果に關する十九日の大本營發表に正規航空母艦といふ耳新しい言葉があるが、これは最初から航空母艦として設計建造された空母で従来制式航空母艦と呼ばれたものと同義語である、敵米空母の呼稱にはこの正規航空母艦のほかに巡洋艦を改造した巡改航空母艦、商船を改造した特設航空母艦がある」と解説された[29]。
^ (日本郵船)▲橿原、出雲[33](何れも二万六千七百噸)の兩船は商船として船出せず、正式空母隼鷹、飛鷹となり南太平洋海戰に参加したがサイパンにて空爆を受け沈没(以下略)(註:マリアナ沖海戦で沈没したのは飛鷹のみ)
^ 1943年5月、評論家アーネスト・K・リンドリー (Ernest Kidder Lindley) はカイザー造船所で多数建造中のカサブランカ級護衛空母(商船設計流用空母。俗称:ジープ空母、赤ちゃん空母)について論評し、その際に空母群で行動する空母について「正式な空母 (true carrier) 」や「高速力で本格的な空母 (high-speed full-sized carrier) 」と表現している[34][35]。
^ 航空機護衛艦(AVG)は、1942年8月20日には補助航空母艦(Auxiliary aircraft carrier)と改称して船体分類記号もACVに変更された。その後、1943年7月15日の類別の整理の際に、他の空母になぞらえて、護衛空母(Escort carrier)と改称し、船体分類記号もCVEに変更された[36]。
出典^ a b c 戦史叢書43 1971, p. 66.
^ 「「第2章 作戦第1期(レイテ作戦)/4、情況判断の誤謬と「レイテ」快戦指導の経緯 統帥部を支配したる戦略思想に就て」、比島作戦第1期(原稿)(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C14061331900 p.1
^ a b 中川 1994, p. 7.
^ a b c 「第2次丹作戦戦闘詳報 昭和20年3月11日ウルシー在泊敵航空母艦特攻攻撃(1)(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13120380000 p.32
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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