正平地震
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三河の記録としては渥美郡堀切の『常光寺年代記』に「自六月一日より廿一日迄大地震地破」とある[13]

『皇年代略記』には「貞治元年壬寅九月廿三日改元、依兵革流病天変地震也。」とあって、翌年の貞治元年9月23日(ユリウス暦1362年10月11日)に兵革・疫病・天変地異によって「貞治」に改元された。
前震・余震

『後愚昧記』、『後深心院関白記』(『愚管記』)、『忠光卿記』、および『斑鳩嘉元記』など複数の史料に、本震の3日前および2日前、京都・畿内において強い地震の記録がある[14]。『日本被害地震総覧』[14]や『理科年表』[15]は「前震か?」としており、それが事実なら南海トラフ沿いの地震とされるものとしては確認できる唯一の前震の例となるが、この見方は誇張や誤りが多い『太平記』や『続本朝通鑑』の記述を鵜呑みにした史料批判精神に欠く今村明恒の見解による[16]

6月22日の地震は京都および大和で強震であり、法隆寺の築地が崩れ、天王寺の金堂が倒れる。『太平記』によれば6月18日頃、『後愚昧記』、『春日若宮神殿守記』によれば6月16日刻から畿内付近で地震が頻発した。

正平16年6月21日刻(1361年7月23日18時頃[J]、7月31日[G])- 京都で地強く震う。

正平16年6月22日刻(1361年7月24日6時頃[J]、8月1日[G])- 京都および大和で地強く震う。

史料によれば正平16年6月24日の他に、6月16、18、20、21、22、25(天王寺金堂倒壊)、26日、7月24日(摂津難波浦の津波、太平記36)、8月24日(山王寺伽藍倒壊、太平記36、本朝通鑑142)などの地震被害記録があり、余震が多かったものと見られる[12]。ただし、創作が多分に含まれる『太平記』やこれを基に記述された『本朝通鑑』にある7月24日および8月24日の地震記事は6月24日のものであると解釈されている[9]

『愚管記』、『後愚昧記』には、本地震の10日後に「地また大いに震う」とあり、観心寺に修法が命じられ、熾盛光法、尊星王法を宮中に修め、地震の厄を祓わせた[9]。『後愚昧記』によれば6月21日、6月24日の地震に匹敵する強い揺れであったという[12]

正平16年7月4日刻(1361年8月5日16時頃[J]、8月13日[G])- 京都で地大いに震う。

津波

法隆寺の文書である『斑鳩嘉元記』には「又安居殿御所西浦マテシホミチテ其間ノ在家人民多以損失云々」とあり、海岸から約4kmの距離にあった天王寺の西に位置する安居殿御所の西側まで津波が押寄せたことになり、津波は宝永地震よりもさらに1km程内陸に及んだと解釈され、宝永地震と同様に連動型地震の可能性があるとされる[17]。ただし宝永期とは海岸線が異なることが考慮されていない[4]

当時、天王寺西門の坂下には「西浦」などと呼ばれる、ハマグリなどを採集・販売を生業とする商人らが居住する地域が広がっていたという[5]。当時の海岸線は江戸時代とは異なっており、西浦と呼ばれた地域の西端は天王寺と今宮の境界である日本橋筋辺りと推定され、津波の遡上高は最大で4.65m程度、少なくとも3.3mと推定され、安政津波は上回るが宝永津波を上回ったかは不明であるとされる[18]貞治の碑。徳島県美波町由岐。貞治6年(1367年)に正平地震津浪犠牲者供養のため地蔵尊を刻んだ石が、安政南海地震の際、異様な光を放ち地元の人が祀ったと伝わる。

地震・津波の描写と思われる『太平記』の冒頭の部分は『方丈記』にある文治地震における「山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸をひたせり。」の記述に似る。難波浦では津波襲来の約1時間前に数百(数10km)潮が引き、干上がった海底の魚を拾い集めようとした漁師ら数百人が突如襲来した津波により溺死した。

『太平記』には「山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千萬と云数を知ず」と記述され、阿波の雪湊(現・徳島県美波町由岐地区)において大津波で1700余りの家が流失した様子も記され「家に居た僧俗男女、牛馬鶏犬。一つも残らず海底のもくずとなった」とある[19]。阿波における被害記録が確認されているのは『太平記』およびこれを基に記された『阿波志』のみであり、その他の古文書からは確認できないが、雪湊は『平家物語』にも登場し、この頃、土佐および九州への中継の立寄り湊として1700余戸の家数を持つ当時としては大きな湊町であったことは妥当であると推定される[5]。『阿波志』には「雪池は東西由岐村間にあり、康安元年、地大いに震い海湧き、全村蕩尽す六月十六日より地震十月に至る。地裂けて池となる」とあり、由岐大池がこの地震で出現した池であるとされる[20]

土佐における津波の記録は『土佐国編年紀事略』に記された香美郡田村下庄の正興寺における「正平十六年六月廿四日、高塩香美郡田村下庄正興寺ニ上ル古文書等多流失ス。」のみが確認されている[9][21][22]。この正興寺跡地の場所は現在の高知空港付近の南国市田村・前浜であり、標高は4.5mと測定され、古文書が流されたのであるから、古文書は地上1mの高さの位置にあったと考えて、津波の高さは5.5mと推定されている[23]
地震像

大森房吉(1913)は本地震を「畿内及び附近の地震」と分類し、震源域は奈良附近から大坂を経て四国東北端に延長する一帯とし、その中心は大阪湾にあり、1510年の摂津・河内で被害の著しかった永正地震や、1854年の伊賀上野地震の震源域に続くもので同系列の地震に属すと考えた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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