正岡子規
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翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現:東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。

松山中と共立学校で同級だった秋山真之(後に日露戦争時の連合艦隊参謀)とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石南方熊楠山田美妙らと同窓だった。

大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せて文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。1894年(明治27年)夏に日清戦争が勃発すると、翌1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)らに挨拶をして帰国の途についた[注釈 2]。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」[注釈 3]と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。

短歌(和歌)においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。『古今集』を否定して『万葉集』を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新に努めた。根岸短歌会は、のちに伊藤左千夫長塚節岡麓らにより短歌結社アララギ』へと発展していく。

やがて病に臥しつつ『病牀六尺』を書いた。これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。同時期に病床で書かれた日記『仰臥漫録』の原本は、兵庫県芦屋市虚子記念文学館に収蔵されている。

1902年(明治35年)9月19日午前1時頃に息を引き取った[2]。21日の葬儀には150名以上が参列し[2]、生前に弟子へ遺言していた「静かな寺に葬ってほしい」という願いに合わせて、田端の大龍寺に埋葬され、現在も墓所がある[5]戒名は子規居士[2]
年譜

※日付は1872年までは旧暦

1867年(慶応3年)9月:伊予国温泉郡藤原新町(現:愛媛県松山市花園町)に松山藩士の正岡常尚の長男として生まれる。

1868年(明治元年):湊町新町に転居。

1872年(明治5年)3月:父が死去。

1873年(明治6年):寺子屋式の末広学校に通う。

1875年(明治8年)

1月:勝山学校(現:松山市立番町小学校)へ転校。

4月:祖父の観山が死去。土屋久明に漢学を学ぶ。


1878年(明治11年):初めて漢詩を作り、久明の添削を受ける。

1879年(明治12年)12月:勝山学校を卒業。

1880年(明治13年)3月:松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)入学。
1883年(明治16年)11月、東京府新橋での記念写真。前列左より藤野古白、安長知之、正岡子規、後列左より三並良、太田正躬。

1883年(明治16年)

5月:大学予備門受験のために松山中学を退学。

6月:東京へ出る。

10月:共立学校(現:開成中学・高校)入学。


1884年(明治17年)9月:東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学。俳句を作り始める。

1887年(明治20年)7月:松山三津浜の宗匠、大原其戎を訪れ句稿を見せる。この年、其戎の主宰する『真砂の志良辺』に俳句が掲載される。

1888年(明治21年)

7月:第一高等中学校予科卒業。

9月:本科へ進級、常磐会寄宿舎に入る。


1889年(明治22年)

4月3日 - :常磐会の友人と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、徒歩旅行を行う[6]

5月:喀血。初めて「子規」とす。


1890年(明治23年)

7月:第一高等中学校本科卒業。

9月:帝国大学文科大学哲学科入学。


1891年(明治24年)1月:国文科に転科。

1892年(明治25年)

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}10月:退学[要出典]。

12月:日本新聞社に入社。


1895年(明治28年)4月:日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。

1896年(明治29年)1月:現在の子規庵で句会。

1898年(明治31年)3月:子規庵で歌会。

1900年(明治33年)8月:大量の喀血。

1902年(明治35年)9月:死去。満34歳。東京都北区田端の大龍寺に眠る。辞世の句糸瓜咲てのつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

人物

英語が苦手だった。試験の際に
カンニングをしたことがある。"judicature" の意味が分からなかった子規が隣の男に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われた。本当は「法官」という意味だったが、「幇間」だと思って解答用紙に書いてしまった。ちなみに、子規はこの試験に合格したが、その「隣の男」は不合格になったという[7]

松山に漱石がいたときに鰻丼を奢ると言って、その代金を漱石に払わせた。

子規が東京帝国大学入学後に哲学専攻を辞めたのには理由がある。夏目漱石の親友[8][9]に米山保三郎[注釈 4][10][11]がおり、会話をして驚嘆して諦めたという。「哲学というのはわけがわかんらんぞなもし。わしには手に負えん」と言ったという[12]

本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、「陳腐、平凡」という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時、和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かった。

同郷の言語学者・小川尚義は、松山中学、一高、帝大の後輩にあたり、一高時代から交友があった。小川が帝大を卒業した1896年7月に一時帰省する際、「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句を贈った(道後温泉「椿の湯」湯釜にも刻印されているが、そこでは「ゆ」が「温泉」となっている)。

「柿くへば…」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。なお、病床においてもいくつも食べるほど柿好きであり、夏目漱石に「柿」というあだ名をつけたこともある。

子規没後の正岡家が描かれる後日談的な作品に『ひとびとの跫音』がある。


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