正力松太郎
松太郎が生まれたとき、父・庄次郎は雪解け水で氾濫した庄川の修復工事に忙しく、松太郎に対面したのはお七夜の晩だった[14]。
雄神小学校から高岡中学(後の富山県立高岡高等学校)に進んだ正力は、「勉強よりは体を鍛えろ」という父親の教えに従って、寄宿舎には入らず、8キロメートルの道のりを地下足袋姿で通った[15]。
第四高等学校入学[注釈 1]。
1906年(明治39年) - 三高との高専柔道の対校戦に優勝[注釈 2][注釈 3]。
1907年(明治40年)
7月 - 東京帝国大学法科大学独法科入学[注釈 4]。
1911年(明治44年)
7月 - 東京帝国大学卒業。内閣統計局に入る(同郷の南弘の推薦による)
1912年(明治45年/大正元年)
11月 - 高等文官試験に合格。
1913年(大正2年)
6月 - 警視庁入庁、警察官となる。警務部警務課勤務。
1914年(大正3年)
6月 - 警視に任官、日本橋堀留警察署長。
1917年(大正6年)
2月 - 牛込神楽坂警察署長。
9月 - 警視庁第一方面監察官。早稲田騒動を鎮圧。
1918年(大正7年)
10月 - 米騒動鎮圧の功により、従六位に叙せられる。
1919年(大正8年)
6月 - 警視庁警務部刑事課長。
1921年(大正10年)
6月 - 警視庁官房主事。
7月 - 正六位に叙せられる。
1923年(大正12年)
9月 - 関東大震災において「朝鮮人暴動の風説」が蔓延したことで、関東大震災朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、甘粕事件が発生。1944年(昭和19年)警視庁で行った講演において正力は、虚報は震災の衝撃と通信電信途絶による人心の疑心錯覚から生じたもので、それに翻弄された当時の警視庁は事態への対応に失敗したと述べている(『正力松太郎 悪戦苦闘』 “米騒動や大震災の思い出”[18])。
10月 - 警視庁警務部長 虎ノ門事件
1924年(大正13年)
1月 - 虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。
1928年(昭和3年)
8月 - 外部招聘により在籍していた京成電気軌道での事件「京成疑獄事件」に連座していたため逮捕。直後に起訴され、裁判の結果、禁錮4ヶ月、執行猶予2年の判決を受ける。
1931年(昭和6年)
神奈川県三浦郡逗子町(現在の逗子市)に移住。詳細は「逗子邸宅」を参照。
1934年(昭和9年)
ベーブルース他の大リーグ選抜チームを招聘[19]、大日本東京野球倶楽部創立。
1935年(昭和10年)
2月 - 右翼団体「武神会」長崎勝助のテロに遭い、瀕死の重傷を負う。
1940年(昭和15年)
9月 - 大政翼賛会総務に就任。
1943年(昭和18年)
5月 - 翼賛政治会総務に就任。
6月 - 内閣情報局参与に就任。
1944年(昭和19年)
5月18日 - 貴族院議員に勅選される[20]。
10月 - 小磯内閣顧問に就任。
1945年(昭和20年)
10月 - 第1次読売争議起こる。
12月 - A級戦犯に指定され、巣鴨拘置所に収容される[注釈 5]。
1946年(昭和21年)
1月 - 公職追放。
1947年(昭和22年)
9月 - 不起訴、釈放。(追放中にプロ野球再編問題が起き、正力に球団創設を勧められた毎日新聞が千葉ロッテマリーンズの前身の毎日オリオンズ創設)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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