一方でそのベルリンでは、1989年12月25日にレナード・バーンスタイン指揮の演奏会が行われた。バイエルン放送交響楽団を母体に、東西ドイツとアメリカ、イギリス、フランス、ソ連(当時)の6ヶ国から有志を募って混成オーケストラを臨時編成し、ベルリンでも伝統のあるコンサートホールであるシャウシュピールハウスで交響曲第9番を演奏して、東西ドイツの融和を祝った。この時は“Freude”(歓喜)を“Freiheit”(自由)に置き換えて歌ったことが大きな話題になった(再統一は翌年の1990年10月3日である)。
間もなく、ドイツ・グラモフォン社からこのクリスマス・コンサートのライブ録音がCDとレーザー・ディスク(LD)で発売された。バーンスタインはそれから1年もたたないうちに、1990年10月14日に急逝した。 交響曲第9番を日本で初めて合唱付きで全曲演奏したのは、1918年(大正7年)6月1日、徳島県板東町(現・鳴門市)の板東俘虜収容所に収容されていたドイツ兵たちであった。当時、中国の青島はドイツの租借地であり、日本は第一次世界大戦に連合軍側に立って参戦すると、ここを占領し彼らを捕虜として収容したのである。ドイツ人捕虜たちは、収容所長の松江豊寿大佐の人道的扱いによって自由に音楽を楽しんでいた。このエピソードは『バルトの楽園』として2006年に出目昌伸により映画化され、それ以前にもNHKの連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」(1980年放送)などで取り上げられている。 なお「歓喜の歌」の部分だけの演奏は、板東における全曲の初演より早く、1916年(大正5年)8月20日、徳島俘虜収容所(徳島市)のドイツ兵により行われている。 また、歓喜の主題がメロディーとして日本人に知られたのはさらに古く、1912年(明治45年)の『日曜学校讃美歌』では「ものみなうるはし ものみなたのし」の歌詞を付けて紹介されている。1917年(大正6年)の第一高等学校寮歌「とこよのさかえに」[5]も、歓喜の主題を使ったものである。 邦人としての初演は、1924年に九州帝国大学の学生オーケストラである「フィルハーモニー会」(現九大フィルハーモニーオーケストラ)が摂政宮殿下御成婚奉祝音楽会にて演奏したのが最初であるとされており、歌詞はドイツ語やその日本語訳ではなく、当時の文部省制定による「皇太子殿下御結婚奉祝歌」が用いられた。詳細は「交響曲第9番 (ベートーヴェン)#日本初演」を参照 1998年2月7日、長野オリンピックの開会式において小沢征爾指揮の下で世界の5大陸・6ヶ国・7か所から同時に歌われ、それに合わせた堀内元振付によるバレエの映像が世界中に中継された。歌われた場所は、小沢征爾がタクトを振った長野県県民文化会館、中国・北京の紫禁城、オーストラリア・シドニーのオペラハウス、ドイツ・ベルリンのブランデンブルク門、黒人と白人の混成合唱団で歌われた南アフリカ共和国・喜望峰、アメリカ・ニューヨークの国連本部、開会式が行われた長野オリンピックスタジアムである。 オーケストラによる演奏は長野県県民文化会館で行われたが、合唱団がいる各地に向けて同時に演奏を配信するとオーケストラとの音ズレが起きてしまい、また合唱団の歌声も遅れて長野まで届いてしまうため、1番距離のある喜望峰を基準に遅れを補正された状態で中継された。 午前11時に始まった開会式では聖火が聖火台に点火されたあと、フィナーレとして歓喜の歌が歌われ、80人のダンサーによるバレエが展開された。曇り空の長野、気温がマイナスの北京、真夏のシドニー、真夜中のベルリンと、時刻や季節がバラバラの中同時に歌われた。また喜望峰では日の出と重なり、歌が進むにつれて一帯が明るくなっていく様子が映し出された。
日本最初の演奏
長野オリンピック
その他
この旋律は、1795年の「愛されない者の溜め息と愛の答え Seufzer eines Ungeliebten und Gegenliebe」WoO.118、1808年の「合唱幻想曲作品80」と、1810年の歌曲「絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band」作品83-3にその原型が見られる。
1945年のナチス・ドイツ崩壊から1952年に西ドイツが国歌を決めるまでの間、新しい歌を作ったり、学生歌"Ich hab mich ergeben(ドイツ語版)
かつてのオリンピックの東西統一ドイツ選手団が表彰式での国歌の代わりに用いた。
欧州連合(EU)や欧州評議会では、欧州の歌として採用しヨーロッパのシンボルとしている。
かつて南ローデシア(現:ジンバブエ)の国歌だった。
モーツァルトのオッフェルトリウム「ミゼリコルディアス・ドミニ」ニ短調K.222(205a)の中に似たフレーズが現れる。 ⇒外部リンク
シューベルトの交響曲第8番(旧第9番)ハ長調『ザ・グレイト』第4楽章にも似たフレーズが現れるが、これは引用だと考えられている。 ⇒外部リンク
ブラームスの交響曲第1番ハ短調の第4楽章の主部の主題との類似性はつとに指摘されており、現在ではブラームスのベートーヴェンへのオマージュ(敬意)の表れとの解釈がある。
1970年 - ミゲル・リオス
1972年 - 遠藤賢司が独自に訳詞をつけてカバーする(アルバム『嘆きのウクレレ』収録)。後にBank Bandがこのバージョンをカバーし、アルバム『沿志奏逢』に収録される。
1990年(平成2年)12月13日 - 日蓮正宗宗務院は信徒団体であった創価学会に対し、創立60周年の記念式典で歓喜の歌を原語(ドイツ語)で歌うことはキリスト教を容認・礼讃することになるので取り止めるよう求めた。しかし、創価学会側は歓喜の歌の歌詞にはキリスト教を容認・礼讃するような内容が含まれていないので問題はないとして反発し、日蓮正宗からの創価学会離脱(魂の独立)の一因となった[6]。
1991年に発表されたマイケル・ジャクソンの楽曲「ウィル・ユー・ビー・ゼア」の冒頭で、「歓喜の歌」の一部が使用されている。