明治から大正時代にかけて、江戸時代から受け継がれた清元、長唄などに対し、都会で改変や新作された大衆歌曲を「俗謡」と呼び、その中で特に流行したものは「はやりうた」と呼ばれた[39]。明治中期に西洋音楽の普及を進める政府は、西洋音階と日本の音階を折衷した唱歌教育をすすめた。唱歌調の音階は軍歌や学生歌などの形で普及し、はやりうたを圧倒した。大正3年(1914年)、「カチューシャの唄」(作詞:島村抱月・相馬御風、作曲:中山晋平、歌:松井須磨子)が大流行し、それ以後、唱歌調の歌曲ははやりうたの言い換えとして「流行歌」と呼ばれるようになった[1][39]。
日本のポピュラー音楽を指す呼び名としての「歌謡曲」の命名者は、NHKで邦楽番組を担当していた町田嘉章という説と、大正11年(1922年)から大正14年(1925年)まで存在したレコード会社の東亜蓄音器という説がある[40]。
大正12年(1923年)2月、東亜蓄音器(ハト印)の総目録に「歌謡曲」という言葉が現れているが、このときは、宮城道雄による創作箏曲に対して用いられていた[40](日本蓄音器商会では「新日本音楽」とされた)。
昭和2年(1927年)、NHKの『新日本音楽』で、新作の琴唄や三弦歌謡を「歌謡曲」として放送する[40]。同年5月に松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」などに町田嘉章が作曲し「新歌謡曲」として放送し、同年9月には西條八十の詞に町田が作曲した「夜ふけてうたへる」を「新」のない「歌謡曲」として放送した[40]。
いずれにしても、当初「歌謡曲」は邦楽(純邦楽)系の作曲家や演奏者の作品を指していたが、次第に対象範囲を拡大し、昭和8年(1933年)?9年(1934年)頃からは日本のポピュラー音楽全般を指す用語として用いられるようになる[40]。
これによって「歌謡曲」は西欧の歌曲という限定的な意味だけでなく、日本のポピュラー音楽全般のうち歌詞のあるものの総称として用いられるようになる。 1930年代、関東大震災の復興とともに東京の近代化が一気に進み、洋風の近代市民層が形成されると、モダンな都会文化を歌いこんだ都会賛美調の歌謡曲が流行した(「東京行進曲」、「銀座の柳」など)[41]。対して、観光客誘致の目的から「ご当地ソング」の走りとなる、旅情を誘う歌謡曲・新民謡が多数リリースされ(「波浮の港」、「茶切節」など)、時として観光ブームへとつながった。 また、日本の勢力が海外で拡大するとともに「酋長の娘」や「上海リル」といった、それぞれの土地の娘を賛美する、異国情緒を明るく歌いこんだ歌謡曲が作られヒットした。 満州事変後日本が戦争に邁進し軍国主義が台頭するようになると、流行歌の「健全化」が図られ『国民歌謡』が登場する。「歌謡曲」を日本のポピュラー音楽を指し示す一般的な用語にしたのはこの番組とされる。『国民歌謡』は、それまで流行歌と呼ばれていた大衆歌曲を放送する際に、「はやるかはやらないか分からない歌を〈はやり歌〉とするのは適当でない」として「歌謡曲」として放送した[11]。
昭和モダン期
国民歌謡、戦時歌謡