吉田拓郎ら、1970年代に入って抬頭したシンガーソングライターは[26][27][28]、自分たちフォークやロック、ニューミュージック系の自作自演のアーティストを「こっち側」、レコード会社専属の職業作家(作詞・作曲家)、歌手の分業体制により作られた歌謡曲を[3][7]「あっち側」と呼び、歌謡曲に対して異常な敵対心を燃やした[29][30][31][32]。吉田拓郎と筒美京平が接近遭遇したときには、周りの心臓が10分くらい止まりそうになったといわれる[31]。拓郎の弟子[33]原田真二は「歌謡曲って独特のニオイがあるでしょう。最高にイヤ」とトンデモ発言をしたことがある[34]。拓郎がやったテレビ出演の拒否、全国コンサートツアー、大規模野外フェスの実施、レコード会社の設立といったものは[32][35][36][37][38]、歌謡曲がやらないことをやり、歌謡曲との対立構造を明確にし、歌謡曲から自分たちの覇権を奪うための闘いだった[35][36][38]。 明治から大正時代にかけて、江戸時代から受け継がれた清元、長唄などに対し、都会で改変や新作された大衆歌曲を「俗謡」と呼び、その中で特に流行したものは「はやりうた」と呼ばれた[39]。明治中期に西洋音楽の普及を進める政府は、西洋音階と日本の音階を折衷した唱歌教育をすすめた。唱歌調の音階は軍歌や学生歌などの形で普及し、はやりうたを圧倒した。大正3年(1914年)、「カチューシャの唄」(作詞:島村抱月・相馬御風、作曲:中山晋平、歌:松井須磨子)が大流行し、それ以後、唱歌調の歌曲ははやりうたの言い換えとして「流行歌」と呼ばれるようになった[1][39]。 日本のポピュラー音楽を指す呼び名としての「歌謡曲」の命名者は、NHKで邦楽番組を担当していた町田嘉章という説と、大正11年(1922年)から大正14年(1925年)まで存在したレコード会社の東亜蓄音器という説がある[40]。 大正12年(1923年)2月、東亜蓄音器(ハト印)の総目録に「歌謡曲」という言葉が現れているが、このときは、宮城道雄による創作箏曲に対して用いられていた[40](日本蓄音器商会では「新日本音楽」とされた)。 昭和2年(1927年)、NHKの『新日本音楽』で、新作の琴唄や三弦歌謡を「歌謡曲」として放送する[40]。同年5月に松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」などに町田嘉章が作曲し「新歌謡曲」として放送し、同年9月には西條八十の詞に町田が作曲した「夜ふけてうたへる」を「新」のない「歌謡曲」として放送した[40]。
歴史
誕生