歌謡曲
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服部良一は『現代用語の基礎知識』(1972年版)「軽音楽用語の解説」の中で「音楽は、時代の流れに伴って発展する。特にポピュラー音楽の世界においては、この現象が著しい。以前には、クラシック音楽とポピュラー・ミュージックの間には、かなり厳然たる垣が存在していたが、今日ではこの区別は不明確になりつつある(中略)特に日本人は、あらゆる音楽の形態を好む多趣味の性格が、ラジオ、テレビ、レコードなどのマスコミの攻撃にあおられて、日本特有の歌謡曲(演歌、民謡なども)から、世界各国の最新ヒット・ソングに至るまで、心から楽しんでいるのが現状である」などと書いている[13]。服部は民謡も歌謡曲に含んでいる[13][注 4]。1977年『ニューミュージック白書』(エイプリル・ミュージック)では「大正時代以来、この国のメンタリティーを底辺から支えてきた歌謡曲?演歌の伝統に対して、ニューミュージックはどういう作用をもたらしたのか」などと「歌謡曲?演歌」と「ニューミュージック」を分けている[17]。前掲の『日本大百科全書 ニッポニカ』には「第一次オイルショック(1973年)を境に歌謡曲は演歌とニューミュージックに二分された」と書かれている[1][12]。平凡社『改訂新版 世界大百科事典』では、フォーク、グループ・サウンズ、ニューミュージックを歌謡曲に含んでいる[1]1980年代に刊行された『日本大百科全書 ニッポニカ』(小学館)には「J-POP」は「歌謡曲、ニューミュージック、ポップス、ロックといった、それまでのジャンルが区分崩壊したあとの1990年代以降の日本のポピュラー音楽の総称。演歌や童謡ジャズクラシックを除いた、英米ポップスの様式的特徴を持つものがそのジャンルの中核に位置する」などと書かれている[18]。多くの書籍で「歌謡曲」には含まれることが多い「演歌」は[13]、「J-POP」では外される[18]。1992年『STUDIO VOICE』(流行通信)「特集 歌謡曲の神話 ベストテン時代へのレクイエム」では49頁にも亘る歌謡曲の特集が組まれ、この中では演歌やニューミュージック、ポップス、ロックも歌謡曲に含んでいた[19]。「1970年代に歌謡曲がフォーク、ロックを取り込んだ」とする論調や[20]「J-POP」に「歌謡曲」「フォークソング」「ニューミュージック」「ロック」を含むケースもある[21]。流行の時代背景から愛好者の層が重なるため、演歌とともに昭和歌謡やそれ風の楽曲群を包摂的に扱う「演歌・歌謡曲」と呼ばれるジャンルも存在する。スージー鈴木は、著書『1984年の歌謡曲』で「70年代から始まった『歌謡曲とニューミュージックの対立』は、『歌謡曲とニューミュージックの融合』に置き換えられた。『ニューミュージック』は『シティポップ』の時代を経由し、『J-POP』に昇華されていく」と[14]「歌謡曲」と「ニューミュージック」「シティポップ」「J-POP」は近い関係ながら別々に論じている[14]。日本のポピュラー音楽は、昔から海外で流行するジャンルの要素を取り入れることで発展してきたという歴史があるため[1][2][3][13][22][23][24]、日本の各ポピュラー音楽のジャンルの境界線は、どれも曖昧という特徴を持つ[1][2][7][13][18][25]

吉田拓郎ら、1970年代に入って抬頭したシンガーソングライター[26][27][28]、自分たちフォークやロック、ニューミュージック系の自作自演のアーティストを「こっち側」、レコード会社専属の職業作家(作詞作曲家)、歌手の分業体制により作られた歌謡曲を[3][7]「あっち側」と呼び、歌謡曲に対して異常な敵対心を燃やした[29][30][31][32]。吉田拓郎と筒美京平が接近遭遇したときには、周りの心臓が10分くらい止まりそうになったといわれる[31]。拓郎の弟子[33]原田真二は「歌謡曲って独特のニオイがあるでしょう。最高にイヤ」とトンデモ発言をしたことがある[34]。拓郎がやったテレビ出演の拒否、全国コンサートツアー、大規模野外フェスの実施、レコード会社の設立といったものは[32][35][36][37][38]、歌謡曲がやらないことをやり、歌謡曲との対立構造を明確にし、歌謡曲から自分たちの覇権を奪うための闘いだった[35][36][38]
歴史
誕生

明治から大正時代にかけて、江戸時代から受け継がれた清元長唄などに対し、都会で改変や新作された大衆歌曲を「俗謡」と呼び、その中で特に流行したものは「はやりうた」と呼ばれた[39]。明治中期に西洋音楽の普及を進める政府は、西洋音階と日本の音階を折衷した唱歌教育をすすめた。唱歌調の音階は軍歌学生歌などの形で普及し、はやりうたを圧倒した。大正3年(1914年)、「カチューシャの唄」(作詞:島村抱月相馬御風、作曲:中山晋平、歌:松井須磨子)が大流行し、それ以後、唱歌調の歌曲ははやりうたの言い換えとして「流行歌」と呼ばれるようになった[1][39]

日本のポピュラー音楽を指す呼び名としての「歌謡曲」の命名者は、NHKで邦楽番組を担当していた町田嘉章という説と、大正11年(1922年)から大正14年(1925年)まで存在したレコード会社の東亜蓄音器という説がある[40]

大正12年(1923年)2月、東亜蓄音器(ハト印)の総目録に「歌謡曲」という言葉が現れているが、このときは、宮城道雄による創作箏曲に対して用いられていた[40]日本蓄音器商会では「新日本音楽」とされた)。

昭和2年(1927年)、NHKの『新日本音楽』で、新作の琴唄や三弦歌謡を「歌謡曲」として放送する[40]。同年5月に松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」などに町田嘉章が作曲し「新歌謡曲」として放送し、同年9月には西條八十の詞に町田が作曲した「夜ふけてうたへる」を「新」のない「歌謡曲」として放送した[40]


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