歌舞伎
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また、享保年間には演技する場所として花道が使われるようになり[34][注釈 6]、「せり上げ」が使われ始め[34]廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた[34]宝暦年間の大坂では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする[34][35]など、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた[34]。これらの工夫は江戸でも取り入れられた[34]。こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと発展した。

作品面では18世紀から趣向取り・狂言取りの手法が本格化した[36]。これらは17世紀の時点で既に行われていたが、当時は特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になった[36]。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる[36]

また、この頃になると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言が誕生した[36]。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった[36]

延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年(1746年)、4年(1747年)、5年(1748年)である。

またそれから少し遡る享保16年(1731年)には初代瀬川菊之丞が能の道成寺に着想を得た『無間の鐘新道成寺』で成功を収め[36]、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた[36][注釈 7]。その後、道成寺を題材にした舞踊がいくつも作られ、宝暦3年(1753年)には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている[36]。なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており[36]、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった[36]

宝暦9年(1759年)、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立した[37]。これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。その後、男が女を殺す場面につながることが多い[37]
文化から幕末『十一段目』左から三代目岩井粂三郎の大星力弥、五代目澤村長十郎の大星由良助、二代目市川九蔵の寺岡平右衛門。嘉永2年(1849年)7月、江戸中村座。三代目豊国画。

これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化・文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し[38]、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言[39])を確立して評判を得た[39]

天保3年(1832年)には五代目市川海老蔵(後の七代目市川團十郎)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。

その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、天保13年(1842年)に七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外[注釈 8]に移転させられた[40]。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名された。

しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。

幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった[41]

江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別された[42]とされる。
明治から昭和初期二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊

明治に入ると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。しかし明治5年(1872年)になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が明治政府から出された。政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ[33]、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を廃止することなどを要求した[33]のである。江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり[33]、政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった[33]

1886年(明治19年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で[33]演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストら[33]が参加した。翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなった[33]

時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物[注釈 9]と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。芝居の価値観が政府のそれと一致していた團十郎は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した[33]。それに対して團十郎が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」[33]で、セリフと動きを極力減らし[33]、「目と顔」による表現[33]で演じ始めた。

こうした團十郎の芸は高く評価され[33]ながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ[33]で、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けた[33]が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった[33]。しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった[44]。こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適用され[33]、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった[33]ことが活歴の歴史的意義である[33]


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