歌舞伎
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「歌舞伎」「歌舞伎座」の商標松竹が取得している[8]
歴史
草創期.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに慶長見聞集の原文「歌舞妓をどりの事」があります。出雲阿国(『阿國歌舞伎圖屏風』)阿国歌舞伎発祥地の碑(京都市東山区、南座前)

歌舞伎の元祖は、出雲阿国(いずものおくに)という女性[注釈 1]が創始した「かぶき踊」であると言われている。「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。阿国たちの一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている[10]

『当代記』によれば、阿国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった[10]。ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋のこと[11]で、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである[11]。後述するように、「かぶき踊」は遊女に広まっていくが、もともと阿国が演じていたものも上述したような性的な場面を含んだものであって、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない[12]

『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、阿国が「ややこ踊」というものを踊っていたという記録があり[13]、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている[13]。しかし内容面では両者は質的に異なった[9]ものであり、「ややこ踊」が可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し[10]、「かぶき踊」は前述のように傾き者の茶屋遊びという性的な場面を含んだものである。

なお、この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった[14]

「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったとされる。そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった[15][16]

その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった[17]。今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである[6]。当時最新の楽器である三味線を花形役者が弾き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという[18]

ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを陰間というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていた[19][12]ことからも分かるように好色性を持ったものであった[12]。全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京・大坂・江戸の三大都市を中心とした都市部に限られていた[20][21]

しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため[22]、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止されることになった[17]。遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来の通説では寛永6年(1629年)であるとされていた[注釈 2]が、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている[17]。それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまった[20]

なお、古い解説書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止されたあとに作られたもの」だと書かれているもの[注釈 3]があるが、これは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)には既に若衆歌舞伎の記録がある[12]。また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがあるが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在する[23]
元禄初代 市川團十郎歌川広重画『猿わか町よるの景』手前から奥へ森田座、市村座、中村座。

次の画期が元禄年間(1688?1704)にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では寛文延宝の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し[24]、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている[24]。この頃には「演劇」といっても憚りのないものになっていた[23]江戸四座(後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃である[25]

元禄年間を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展を遂げ、この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている[26]。この時期の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎[27]と、「やつし事」[注釈 4]を得意とし[28]て評判を得た京の初代坂田藤十郎がいる。藤十郎の演技は、後に和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ[28]、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた[27]芳沢あやめ (初代)も京随一[29]の若女形として評判を博した。

なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述[30]が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない[27]。当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない[31]。また荒事の成立過程はよくわかっておらず[28]、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない[27]

狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。後に近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、彼の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。

作品面では延宝8年(1680年)頃には基本となる7つの役柄がすべて出揃った[32]。すなわち立役女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である[32]

また作品づくりにおいて、幕府からの禁令ゆえの制限ができた。正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ[33]、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられた[33]のである。


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