歌舞伎
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松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととした[49]。しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、1947年(昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。

1950年代には人々の暮らしにも余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であった[50]。一方でテレビ時代とともにプロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。

そのような社会の変動の中、1962年(昭和37年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復した。役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門二代目尾上松緑二代目中村鴈治郎十七代目中村勘三郎七代目尾上梅幸八代目松本幸四郎十三代目片岡仁左衛門十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。日本国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。

戦後の全盛期を迎えた1960年代から1970年代には次々と新しい動きが起こった。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。1965年(昭和40年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され[注釈 10]国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功した。国立劇場は高校生のための歌舞伎教室を盛んに開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出に努めた。その後、大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増した。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれた外連の要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、より大胆な演出を強調した「スーパー歌舞伎」を創り出した。また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎らによる関西歌舞伎の復興[注釈 11]などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しい形の歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。

歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前[注釈 12]2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。
演目東京歌舞伎座上演の『』(中央で見得を切るのは九代目市川團十郎の鎌倉権五郎)。1895年(明治28年)11月、鹿島清兵衛撮影
分類

現代の歌舞伎の演目は普通の芝居である歌舞伎狂言と歌舞伎舞踊に分けられる[51]

歌舞伎狂言は、さらにその内容により時代物と世話物に大別される。時代物とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした実録風の作品[52]や、江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世以前に仮託した作品をいう[53]。一方、世話物とは、江戸時代の市井の世相を描写した作品をいう[54]

時代物のうち、お家騒動を書いたものは御家物(おいえもの)、飛鳥時代から平安時代を描いたものは王朝物(おうちょうもの)と呼ばれる。また世話物のうち、特に写実的要素の濃いもの[55]を生世話物(きぜわもの)という。明治になると当時の世相を描いた散切物という世話物のサブジャンルも生まれた。

また歌舞伎狂言はその起源によって分類することもでき、人形浄瑠璃の演目を書き換えたものを丸本物[56]といい、能・狂言の曲目を原作としてそれらに近い様式で上演する所作事を松羽目物[注釈 13]という。丸本物は義太夫物・義太夫狂言・でんでん物[57]などとも呼ばれる。なお丸本物の対義語は純歌舞伎[58]である。

活歴物(かつれきもの)は明治期に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようとして生まれた演目の総称であり、新歌舞伎(しんかぶき)は、明治後期から昭和初期にかけて、劇場との関係を持たない独立した作者によって書かれた歌舞伎の演目の総称である。なお、第二次世界大戦中から戦後以降に書かれた新しい演目は、新作歌舞伎(しんさくかぶき)または単に新作(しんさく)と呼んで、新歌舞伎とは区別している。

歌舞伎狂言の分類方法は人によって揺れがあり、時代物と世話物で2分する代わりにこれにお家物を加えて3分する用例[59]もある。
特徴西光亭芝國・春好齋北洲画『故人市川團藏十七囘忌追善狂言 平家女護嶋』四枚續物、文政7年9月大阪角座上演『平家女護嶋』(1824年)

歌舞伎の演目には他の演劇の演目にはない特徴がいくつかある。まず歌舞伎狂言は世界という類型に基づいて構成されている。「世界」とは物語が展開するうえでの時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもの[60]で、たとえば「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」などがあり、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。当時の観客はこれらの約束事に精通していたため、世界が設定されていることにより芝居の内容が理解しやすいものになっていた。ただし世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、基本的な約束事を除けば原作の物語から大きく逸脱して自由に作られたものであることも多く、登場人物の基本設定すらも原作とかけ離れていることも珍しくない。

複数の世界を組み合わせて一つの演目を作ることもあり、これを綯交ぜ(ないまぜ)とよぶ。世界ごとに描いている場所や時代が異なるはずであるが、前述のように世界はあくまで題材にすぎないので、無理やり複数の世界を結びつけてひとつの演目を作りだす。

江戸時代に作られた演目のその他の特徴として、その長さが長大なこと、本筋の話の展開の合間に数多くのサイドストーリーを挟んだり、場面ごとに違った種類の演出(時代物と世話物(後述))が行われたりすることなどがあげられる。前者はこれは当時の歌舞伎が日の出から日没まで上演した[注釈 14][注釈 15]ことによる。一方、後者は興行の中にさまざまな場面を取り込むことで多種多様な観客を満足させることを狙ったものである。

現在[注釈 16]ではこのような長大な演目の全場面を上演すること(通し狂言)はまれになり、複数の演目の人気場面のみを順に演じること(ミドリ/見取り[注釈 17])が多い。昭和のはじめごろまでは、演目を並べるときに「一番目」(時代物)、「中幕」[56](所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが、現在では行われていない。

また江戸時代には(当時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いることが幕府により禁止されていたため、規制逃れのため登場人名を仮名にしたうえで無理やり過去の出来事として物語が描かれるという特徴もある。しかし仮名といっても羽柴秀吉のことを「真柴久吉」と呼ぶ程度のもので、このように歪曲された演目の内容から真に描きたい事件を読み解くのは容易であった[注釈 18]
演目名と通称

江戸時代の歌舞伎狂言の演目名(外題(げだい)という)は縁起を担いで「割りきれない」奇数個の漢字で書けるものが選ばれることが多く、その読み方はを競って当て字や当て読みを駆使したものであるため、一見しただけではその読み方が分からないものも少なくない。こうした事情により、外題のほかにより親しみやすい通称がついていることが多く、この場合もともとの外題を通称と区別するために本外題と呼ぶ。また各演目の人気のある場面(段・場・幕など)には演目それ自身の通称とは別にその場面の通称がついている場合もある。

具体例は下記のとおりである。

演目そのものに通称がついている例:

都鳥廓白波』(みやこどり ながれの しらなみ) →『忍の惣太』(しのぶの そうた)


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