歌舞伎
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このような経緯を辿って役者となり、抜擢も受けるようになった例としては、二代目市川笑也中村芝のぶ[注釈 21]二代目市川月乃助二代目市川春猿[注釈 22]らが知られる。

ほか、子役で歌舞伎の舞台に出演したときに素質を見込まれて部屋子・芸養子となると、役者と同じ楽屋で鏡台を並べ、有力な役者の子弟(御曹司)と同様に教育を受けることとなる。このように育成された例としては、五代目坂東玉三郎六代目片岡愛之助などが知られている[注釈 23]

歌舞伎界に入門して10年以上で幹部俳優の推薦を受けた役者は、日本俳優協会の名題資格審査(名題試験)を受験することができる。筆記・作文・実技の審査に合格して『名題適任証』を取得し、関係各方面の賛同を受けて名題昇進披露を行った者は「名題俳優」と呼ばれる。歌舞伎俳優の家に生まれた者も歌舞伎とは無関係な家に生まれた者も、同様に受検して資格を得ている[81]。名題に昇格していない者は「名題下」と呼ばれるが、『名題適任証』を取得しているにもかかわらず、あえて昇格をしない者もいる。単なる身分の上下ではなく、立ち廻りの演出を行う専門職の立師(たてし)は名題下の職分であるためである[82]

銀行員であったが市川宗家に婿入りしたことから29歳で役者修業に入った五代目市川三升三代目市川猿之助浜木綿子の息子として生まれたが両親の離婚のため母親に養育され、長らく本名で俳優活動を行った後に45歳で歌舞伎の世界に入った九代目市川中車などは珍しい例といえる。

この節の加筆が望まれています。

伝統歌舞伎保存会

社団法人伝統歌舞伎保存会は、1965年(昭和40年)に文化財保護法に基づき設立された団体である。

1966年(昭和41年)4月に歌舞伎は国の重要無形文化財に認定され、同会はその保持団体として認定を受けた。会員は歌舞伎関係者のうち「舞台経験20年以上の技能に優れたもの」で、重要無形文化財「歌舞伎」の保持者として総合認定を受けている[1]。俳優、長唄(唄方、三味線方)、竹本(唄方、三味線方)、鳴物、狂言作者[83]など、2021年6月の時点で現会員は199名(引退・物故会員247名)である[84]

独立行政法人日本芸術文化振興会国立劇場)や松竹と協力し、歌舞伎俳優(1970年より)と歌舞伎音楽演奏者(竹本は1975年、鳴物は1981年、長唄は1999年より)の新人養成事業を行っている[85]。また若手俳優や演奏家に対して各劇場の稽古場で日常的に研修を行うほか、研修・勉強会に指導者を派遣するなど、歌舞伎という芸能の伝承と育成のための活動[86]、中学生・高校生を対象としたワークショップも継続している[87]

2020年5月28日に日本俳優協会YouTubeチャンネル「歌舞伎ましょう」[88]を開設しており、歌舞伎の魅力を伝えるための動画配信を行っている[89]。歌舞伎の舞台裏や役者の稽古の様子、自主公演のPRや私生活での趣味など多種多様な内容の動画がアップロードされており、六代目市村竹松・尾上音蔵による歌舞伎・歌舞伎化粧の英語解説の動画も作られている。
舞台歌舞伎座の舞台平面図[90]奥村政信画『芝居浮繪』(しばい うきえ)寛保年間の葺屋町市村座。
舞台の各部分

歌舞伎の舞台を右図にしたがって説明する。なお客席から舞台を見たとき右側を上手(かみて)、左側を下手(しもて)という。

花道は舞台下手から客席を貫いて設けられている通路状の舞台である。正面の舞台は本舞台という。花道は役者の入退場に用いられるばかりでなく、ここで重要な演技も行われる。観客のすぐそばを通ることで役者の存在感をアピールするなどの演出が可能となる[注釈 24]

舞台の両端には大臣囲い(だいじんがこい)があり、下手側の大臣囲いには太鼓などの演奏や長唄、効果音などを演奏するための場所で外側には黒い御簾(みす)がかけられている。この場所を黒御簾(くろみす)もしくは下座(げざ)ともいい、ここで奏でられる音楽を黒御簾音楽もしくは下座音楽という。一方、上手側の大臣囲いの2階は義太夫狂言(=人形浄瑠璃から取り込んだ演目)などで竹本という語り物とその伴奏である三味線を奏でる場所で、床(ゆか)と呼ばれる。大臣囲いの端の柱は大臣柱(だいじんばしら)と呼ばれている。これは現在では単なる柱にすぎないが、歴史的には歌舞伎舞台の先祖である能舞台で屋根を支える柱からきており[91]、歌舞伎においても古くは舞台の屋根を支えるために用いられていた[91]

花道の舞台とは反対側の端には役者が入退場するための鳥屋(とや)という部屋があり、その入り口には部屋の中を隠すための揚幕(あげまく)という幕がかかっている。また本舞台と揚幕を3:7に分ける場所[注釈 25]を舞台寄りの七三[92]、7:3に分ける場所を揚幕寄りの七三[92]といい、花道上の演技は多くの場合このいずれかの場所(特に前者)で行われる。舞台寄りの七三にはセリがあり、すっぽんと呼ばれている。すっぽんは妖怪や幽霊などを演じる役者が登場したり退場したりする場合に使われる。花道は通常下手にしかないが、演目によっては演出の都合上、上手側にも花道を仮設する場合があり[注釈 26]、これを仮花道(かりはなみち)という。

なお歴史的には七三といえば揚幕寄りの七三のことであった[92]が、大正の頃[92]から混同が起こり「七三」という言葉が舞台寄りの七三のことも表すようになった[92]。混同された理由としては、揚幕寄りの七三が2階席から見づらいために演技の位置が舞台よりの七三に移ったこと[92]、無知なジャーナリストが誤用した可能性[92]などが挙げられている。また「鳥屋」という言葉は上方のものであり[93]、江戸ではこの部屋も揚幕と呼ばれた[93]

日本の家屋は床が地面よりもかなり高いため、舞台でもこの高さを作り出すことが多い。この高さの水準を二重舞台、略して二重といい、そのための大道具類も二重と呼ばれる。高さによって常足、中足、高足などがある。どれを使うかは場面によってだいたい決まっている[94]

客席の区分と名称については劇場#歌舞伎を参照。
舞台機構
廻り舞台

廻り舞台(まわりぶたい)は舞台中央にあって、水平に回転する舞台である。手前側と向こう側に2つの場面の装置を仕込んでおき、回転させることによって素早く場面転換ができる。通常は役者が舞台に乗ったままの状態で、装置ごと回す。上演中であっても裏側に回った方の装置をこわし、さらに次の場面の装置を仕込むことができる。廻り舞台の回転は歌舞伎の見せ場のひとつで、照明を消さず幕を開けたまま廻り舞台を回転させ、場面転換を観客に印象づけることができる。この手法を明転(あかてん)という。また、たとえば悪だくみをたくらむ場面とその被害者宅の2つを廻り舞台の上に乗せ、一方から他方への転換を見せ、次に逆回転させて元の場面に戻るというようなことができる[注釈 27]。これを俗に「行って来い」といい、場面が戻るとともに時間も戻るかのように感じられるため、2つの場面の同時性を強く表現できる。

『佐倉義民伝』の子別れ、『入谷』などのように、少しだけ廻して建物の横などを見せることもある。半廻しという。歌舞伎以外の芝居では装置は通常、表側だけしか作らないが、歌舞伎ではこのように厚みのある装置を組むことがある。ときには裏側まで作る。
迫り

迫り(セリ)は昇降装置で、地下(奈落(ならく)という)からせり上がって役者の登場や退場に使われるほか、大道具それ自身をせり上げることで屋敷の地下が現れる[注釈 28]などの迫力のある演出を行う。回り舞台が場面を水平方向へ、迫りが鉛直方向に切り替えて立体感を出す。なおセリの配置や個数は劇場により異なるが、ここでは歌舞伎座のもの[95]を図示した。廻り舞台や迫りは今日では様々な演劇に用いられているが、もともとは享保年間に歌舞伎に取り入れられたものである。
歌舞伎座や京都南座の定式幕。森田座に起源を持つ。国立劇場や大阪新歌舞伎座の定式幕。市村座に起源を持つ。平成中村座の定式幕。中村座に起源を持つ。

歌舞伎では舞台と客席を仕切る幕として定式幕という引き幕(=横方向に引いて開閉する幕)が用いられる。現在用いられている定式幕は三色の縦縞であり、色は左から黒、柿、萌黄の順(歌舞伎座や京都南座など)もしくは柿、黒、萌黄の順である(国立劇場や大阪新歌舞伎座など)。平成中村座は例外的に左から黒、白、柿の順の三色を用いている。

また現在ではさらに上に開く緞帳も用いており、緞帳を開けるとその奥に定式幕が見えるようになっている。開場直後や長い幕間では緞帳が下りているが、芝居が始まるだいぶ前の段階で緞帳を上げ、その後定刻になると定式幕を下手から上手へ引き開けて芝居が始まる。

江戸時代に引き幕を使用することができたのは幕府から許可を得た芝居小屋だけであり、定式幕はいわば官許の芝居の証のひとつであった。江戸には幕府の許可を得た芝居小屋は3つのみ(江戸三座)であり、前述した3種類の定式幕はそれぞれ江戸三座の森田座、市村座、中村座に起源を持つ。


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