歌舞伎
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そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった[15][16]

その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった[17]。今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである[6]。当時最新の楽器である三味線を花形役者が弾き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという[18]

ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを陰間というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていた[19][12]ことからも分かるように好色性を持ったものであった[12]。全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京・大坂・江戸の三大都市を中心とした都市部に限られていた[20][21]

しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため[22]、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止されることになった[17]。遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来の通説では寛永6年(1629年)であるとされていた[注釈 2]が、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている[17]。それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまった[20]

なお、古い解説書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止されたあとに作られたもの」だと書かれているもの[注釈 3]があるが、これは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)には既に若衆歌舞伎の記録がある[12]。また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがあるが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在する[23]
元禄初代 市川團十郎歌川広重画『猿わか町よるの景』手前から奥へ森田座、市村座、中村座。

次の画期が元禄年間(1688?1704)にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では寛文延宝の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し[24]、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている[24]。この頃には「演劇」といっても憚りのないものになっていた[23]江戸四座(後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃である[25]

元禄年間を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展を遂げ、この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている[26]。この時期の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎[27]と、「やつし事」[注釈 4]を得意とし[28]て評判を得た京の初代坂田藤十郎がいる。藤十郎の演技は、後に和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ[28]、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた[27]芳沢あやめ (初代)も京随一[29]の若女形として評判を博した。

なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述[30]が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない[27]。当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない[31]。また荒事の成立過程はよくわかっておらず[28]、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない[27]

狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。後に近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、彼の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。

作品面では延宝8年(1680年)頃には基本となる7つの役柄がすべて出揃った[32]。すなわち立役女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である[32]

また作品づくりにおいて、幕府からの禁令ゆえの制限ができた。正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ[33]、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられた[33]のである。これ以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなる。

江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、延宝の初め頃(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰された。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。
享保から寛政三代目大谷鬼次(二代目中村仲蔵)の江戸兵衛、寛政六年(1794年)五月、江戸河原崎座上演『恋女房染分手綱』、東洲斎写楽

歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである[34]。享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる[34][注釈 5]。これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった[34]。また、享保年間には演技する場所として花道が使われるようになり[34][注釈 6]、「せり上げ」が使われ始め[34]廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた[34]宝暦年間の大坂では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする[34][35]など、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた[34]。これらの工夫は江戸でも取り入れられた[34]。こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと発展した。

作品面では18世紀から趣向取り・狂言取りの手法が本格化した[36]。これらは17世紀の時点で既に行われていたが、当時は特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になった[36]。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる[36]


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