歌舞伎俳優
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こうした團十郎の芸は高く評価され[33]ながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ[33]で、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けた[33]が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった[33]。しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった[44]。こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適用され[33]、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった[33]ことが活歴の歴史的意義である[33]

劇場の面では、1889年(明治22年)に演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。その後、経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収した。

歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった[33]。他にも歌舞伎の中央集権化[33]、改良演劇の確立[33]、歌舞伎演出の様式美化の促進[33]といった影響があったことが指摘されている。

一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(後の明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。また大正の頃の市村座では、六代目尾上菊五郎初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、1932年(昭和7年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰えた。

19世紀末[45]になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場した。これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用[45]、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演[45]、「新しい観客の掘り起こし」[45]によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」[45]である。松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながった。ほかにも岡本綺堂の『修禅寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。

その一方では、従前からの梨園封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助春秋座結成に始まり、ついに梨園での封建的な部分に反発して1931年(昭和6年)には四代目河原崎長十郎三代目中村翫右衛門六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された[46]
第二次大戦後

第二次世界大戦の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われた。戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。

終戦後の1945年(昭和20年)9月22日GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から、「封建的忠誠」や「復讐の心情に立脚する」[47]「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。同年11月15日、GHQは東京劇場上演中の『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段を反民主主義的として中止命令を出し、11月20日に上演中止[48]となった。松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととした[49]。しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、1947年(昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。

1950年代には人々の暮らしにも余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であった[50]。一方でテレビ時代とともにプロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。

そのような社会の変動の中、1962年(昭和37年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復した。役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門二代目尾上松緑二代目中村鴈治郎十七代目中村勘三郎七代目尾上梅幸八代目松本幸四郎十三代目片岡仁左衛門十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。日本国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。

戦後の全盛期を迎えた1960年代から1970年代には次々と新しい動きが起こった。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。1965年(昭和40年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され[注釈 10]国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功した。国立劇場は高校生のための歌舞伎教室を盛んに開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出に努めた。その後、大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増した。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれた外連の要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、より大胆な演出を強調した「スーパー歌舞伎」を創り出した。また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎らによる関西歌舞伎の復興[注釈 11]などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しい形の歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。

歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前[注釈 12]2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。


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