歌舞伎俳優
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天保の改革の影響は大きく、天保13年(1842年)に七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外[注釈 8]に移転させられた[40]。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名された。

しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。

幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった[41]

江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別された[42]とされる。
明治から昭和初期二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊

明治に入ると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。しかし明治5年(1872年)になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が明治政府から出された。政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ[33]、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を廃止することなどを要求した[33]のである。江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり[33]、政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった[33]

1886年(明治19年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で[33]演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストら[33]が参加した。翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなった[33]

時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物[注釈 9]と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。芝居の価値観が政府のそれと一致していた團十郎は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した[33]。それに対して團十郎が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」[33]で、セリフと動きを極力減らし[33]、「目と顔」による表現[33]で演じ始めた。

こうした團十郎の芸は高く評価され[33]ながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ[33]で、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けた[33]が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった[33]。しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった[44]。こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適用され[33]、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった[33]ことが活歴の歴史的意義である[33]

劇場の面では、1889年(明治22年)に演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。その後、経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収した。

歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった[33]。他にも歌舞伎の中央集権化[33]、改良演劇の確立[33]、歌舞伎演出の様式美化の促進[33]といった影響があったことが指摘されている。

一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(後の明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。また大正の頃の市村座では、六代目尾上菊五郎初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、1932年(昭和7年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰えた。

19世紀末[45]になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場した。これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用[45]、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演[45]、「新しい観客の掘り起こし」[45]によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」[45]である。松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながった。ほかにも岡本綺堂の『修禅寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。

その一方では、従前からの梨園封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助春秋座結成に始まり、ついに梨園での封建的な部分に反発して1931年(昭和6年)には四代目河原崎長十郎三代目中村翫右衛門六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された[46]
第二次大戦後

第二次世界大戦の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われた。戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。

終戦後の1945年(昭和20年)9月22日GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から、「封建的忠誠」や「復讐の心情に立脚する」[47]「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。同年11月15日、GHQは東京劇場上演中の『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段を反民主主義的として中止命令を出し、11月20日に上演中止[48]となった。松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととした[49]


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