欧州経済共同体
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1958年1月16日、ヴァル・ドゥシェス城において初のハルシュタイン委員会の公式会議が行われた。欧州経済共同体は関税同盟を設立することが目的とされ、一方で欧州原子力共同体は原子力エネルギー分野における協力を促進するものとして設立された。欧州経済共同体は3共同体の中でももっとも重要な地位を急速に占めることになり、またその活動範囲も広げていった。欧州経済共同体における最初の大きな成果の一つは1962年に農産品の共通価格水準を設定したことである。1968年には特定製品に対する域内での関税が撤廃された。

ところが共同体では1962年に共通農業政策をめぐって緊張が走ることになる。全会一致でまとめられた決定による移行期間が終了することとなり、閣僚理事会における多数決が実施されることになった。これに対して当時のフランス大統領シャルル・ド・ゴールが超国家主義的な決定に反対し、またほかの加盟国が共通農業政策の採決にあたろうとすると、議場からフランス政府の代表を退室させる「空席戦術」で対抗し、フランスが再び拒否権を与えられるまで採決を阻止した。このため1966年1月29日にいわゆるルクセンブルクの妥協がまとめられ、国益にかかわる案件については加盟国の拒否権を認めるという紳士協定がなされた[3][4]

1967年、統合条約が発効した。この条約により欧州石炭鉄鋼共同体と欧州原子力共同体の機関が欧州経済共同体の機関に統合され、議員総会欧州司法裁判所を3共同体で共有することになった。このため3共同体は全体として欧州諸共同体(英:EC)と呼ばれるようになる。諸共同体は統合が進められてはいるがそれぞれで独自の法人格を有していた。その後の基本条約において欧州経済共同体は経済分野における高度な統合に関するもの以外にも新たな権限が与えられていくようになった。政治的な統合という目標と平和で統一されたヨーロッパに近づいていく様子をミハイル・ゴルバチョフは「欧州共通の家」と表現した。
拡大と選挙フランス大統領シャルル・ド・ゴール
イギリスの加盟を拒否し続け、議会の権限を抑制し、また「空席戦略」を実行した。

1960年代には初の拡大を実行しようとする動きがあった。1960年5月3日、デンマークアイルランドノルウェー、そしてイギリスは3共同体への加盟を希望する旨を伝えた。ところがフランス大統領シャルル・ド・ゴールはイギリスの加盟をアメリカ合衆国の影響力を及ぼすためのトロイアの木馬と考え、加盟に対して反対し、これら4か国の加盟手続は停滞することとなった。

1969年6月20日、ド・ゴールの辞任後、ジョルジュ・ポンピドゥーがフランス大統領に就任したことを受けてこれら4か国は再び加盟を申請した。イギリスは1970年に親ヨーロッパ的なエドワード・ヒース政権のもとで加盟協議を開始したが、共通農業政策に対する意見の相違やコモンウェルスとの関係について対処することを迫られた。しかしながら2年後には加盟条約が調印され、国民投票で批准が拒否されたノルウェーを除く3か国が共同体に加わった。

欧州経済共同体設立条約では欧州議会について直接選挙の実施を義務づけていたが、これにはまず閣僚理事会における共通の選挙制度について合意を必要としていた。理事会ではこの問題が先送りされており、議会の議員は各国政府による任命制がとられていた[5]。またド・ゴールは議会の機能拡大に反対的であり、辞任後も議会に与えられたのは財政に関する権限だけであった。

議会は選挙についての同意を迫り、そして1976年9月20日に理事会は選挙に必要な法令について合意したが選挙制度の詳細については保留された[5]ジェンキンス委員会の任期中である1979年6月に全議員を選出する欧州議会議員選挙が実施された[6]。新たな議会は直接選挙と権限の拡大により、議員はその職に専念することができるようになった[5]

選挙後まもなく、議会は欧州旗を共同体の旗として採択するよう提唱した[7]欧州理事会はこの提案に賛成し、1984年にヨーロッパのシンボルを共同体においてもシンボルとして使用することを決めた[8]
欧州連合条約まで1957年から2007年までの拡大の変遷
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  「共同体」時代の拡大  1993年以降の拡大

1975年6月12日、ギリシャは民主政へ復帰したことを受けて共同体への加盟希望を表明し、1981年1月1日に加盟が実現した[9]。ギリシャに続いてやはり民主政に復帰したスペインポルトガルも1977年に共同体への加盟希望を表明し、1986年1月1日に両国は同時に加盟した[10]。1987年にはトルコが正式に共同体への加盟を申請し、協議が続けられているが未だ加盟は実現していない。

その後も拡大が見込まれ、また協力分野を広げたいという考えがあったことから単一欧州議定書が加盟国の外相によって、1986年2月17日にルクセンブルク市において、同月28日にハーグにおいてそれぞれ調印された。この議定書では機構改革や権限の拡張、外交政策における協力、単一市場について扱われ、1987年7月1日に発効した[11]。単一欧州議定書は欧州連合条約に関する作業に影響を与え、1991年12月10日に合意に達し、その翌年に調印された。そして1993年11月1日、欧州連合条約が発効し、欧州連合(英略称:EU)が発足した[要出典]。

欧州連合は欧州経済共同体を3つの柱の1つとして内部に組み入れた。欧州経済共同体の対象とする活動分野は欧州共同体とされ、その超国家的な機構は残された。欧州経済共同体の諸機関は欧州連合における機関とされ、一部はその名称が改められたが、他方で欧州司法裁判所、欧州議会、欧州委員会は残り2つの柱に対して関与の余地が限られており、これらの機関は欧州共同体の分野に比べて政府間主義的なものとして機能することとなった。2009年にリスボン条約が発効したことによりこの3つの柱体制は廃止され、共同体自体も消滅した
目的と成果

欧州経済共同体の主たる目的は、設立条約の前文にうたわれているように、「平和と自由を維持し、ヨーロッパ諸国民のより密接な統合の基礎を構築すること」である。均衡の取れた経済成長を掲げて、この目的は 1) 域外に対する共通の関税制度を有する関税同盟の設立 2) 農業、運輸、通商における共通の政策 3) ヨーロッパのほかの地域への共同体の拡大[12]によって達成されるものとされた。関税同盟について、ローマ条約は関税を10%削減するとし、また域外からの輸入を最大20%とすることが規定された。関税同盟については計画よりも12年早く進められたが、フランスはアルジェリア戦争により進展の遅れを余儀なくされた[13]
加盟国詳細は「欧州連合加盟国」および「欧州連合の拡大」を参照

欧州経済共同体とほかの2つの共同体を設立した6か国は「インナー6」と呼ばれることがある(これに対して欧州自由貿易連合を形成した国は「アウター7」と呼ばれた)。この6か国とはフランス、西ドイツ、イタリアとベネルクスの3か国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)である。最初の拡大は1973年に、デンマーク、アイルランド、イギリスが加盟によってなされた。1980年代にはギリシャ、スペイン、ポルトガルが加盟した。1993年に欧州連合が発足したあとも2007年までにさらに15か国が加盟している。  原加盟国  1993年までの加盟国

加盟国加盟日加盟国加盟日
ベルギー1957年3月25日 イタリア1957年3月25日
 デンマーク1973年1月1日 ルクセンブルク1957年3月25日
フランス1957年3月25日 オランダ1957年3月25日
西ドイツ1957年3月25日 ポルトガル1986年1月1日
ギリシャ1981年1月1日 スペイン1986年1月1日


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