欧州委員会が現在のような形態で創設される以前には、欧州石炭鉄鋼共同体の最高機関というものが設置されていた。現在の形態を持つ委員会は1958年発効の欧州経済共同体設立条約によって同共同体の委員会として設置され、1967年発効のブリュッセル条約によって欧州石炭鉄鋼共同体の最高機関と欧州原子力共同体の委員会を継承した[2]。欧州経済共同体委員会の初代委員長にはヴァルター・ハルシュタインが就き、共同体法の整備に着手し、加盟国の国内法に影響を与えた。加盟国政府は当初、ハルシュタインによる運営を委員長としてスタンプを押す程度のものとしてあまり気に留めていなかった。ところが欧州司法裁判所によってその権威が支持されたことにより、委員会の活動はより真剣に受け止められていくようになった[3]。
1965年にハルシュタインは共通農業政策に関する案を推進したが、これは共同体に独自の財源を与えることになるもので、委員会と欧州議会に対してより強い権限を与える一方で閣僚理事会による農業分野での拒否権を排する性格を持つものであった。このような政策案に対してフランスはただちに反発した[4]。ハルシュタインはこれらの政策が論争を起こすということをわかっていたが、農業を担当する委員を飛び越えてまでも共通農業政策案を作成した個人的責任を負った。ところが欧州議会が自らの権限強化につながることからハルシュタインの提案を支持し、またハルシュタインも閣僚理事会に提出する1週間前に欧州議会に政策案を提示していた。ハルシュタインは、加盟国の反対を押し切るのに十分な欧州統合支持の波が起こるのを期待しつつ、共同体がどのように機能するべきであるのかということを示そうとしたのであった。ところがこの一件で、ハルシュタインは冒険的な提案を出すことに対して自信過剰となっていった[5]。
ハルシュタインの提案や行動に対して、フランス大統領シャルル・ド・ゴールは共同体の超国家的権限の強化に危機感を抱き、ハルシュタインの国家元首のような振る舞いを非難した。その結果、フランスは閣僚理事会から代表を引き揚げ、「空席危機」を引き起こした[4]。この空席危機は「ルクセンブルクの妥協」で決着が図られ、ハルシュタインはスケープゴートとされた。閣僚理事会はハルシュタインの再任を拒否し、それ以降はジャック・ドロールが就任するまで「ダイナミックな」委員長が登場することはなかった[5]。 ハルシュタインの業績によって委員会は実体を伴う活動主体となった。1970年代の委員長は通貨同盟など当時の主要な政治課題に取り組んでいった[6]。1970年、委員長ジャン・レイは共同体が独自の財源を持つということを確固なものとし[7]、1977年にはロイ・ジェンキンスが委員長としてはじめて、共同体を代表して G7 に出席した[8]。 ところが1973年と1979年の石油危機などの経済問題などでヨーロッパの統合が棚上げされ、委員長は統合構想を立ち消えないようにすることしかできなかった。
1967年-1985年