機甲師団
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パンツァーカンプグルッペは装甲師団の攻撃の先鋒を担い、突破に成功した場合は、後続の自動車化カンプグルッペがその突破口を確保・拡大する一方、パンツァーカンプグルッペは更に攻撃を継続し、前線の後方に位置する敵の砲兵陣地や司令部、補給処などを蹂躙する[5]。しかしこのように優れた機動力を発揮できるのはパンツァーカンプグルッペのみで、師団全力での機甲戦を行うことができないため、戦術上の選択肢の制約につながった[5]
連邦軍

大戦後の連合軍軍政期を経て1949年西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立したのち、1955年よりドイツ連邦軍としての再軍備が開始され、1959年末の時点で陸軍は12個師団を基幹としていた[6]。27個の旅団には装甲・装甲擲弾兵(歩兵)・空挺・山岳の4種類があり、装甲旅団は2個戦車大隊、1個装甲擲弾兵大隊、1個装甲砲兵大隊、1個補給大隊という編制を標準としていた[6]

その後、1960年代にアメリカ軍がM60戦車に更新するのに伴って余剰となったM4748戦車等が供与され、3個装甲師団を編成した[6]1970年代に36個旅団体制が確立すると、これらの旅団によって6個装甲師団、4個装甲擲弾兵師団、1個山岳師団、1個空挺師団が編成された[6]。西ドイツ陸軍は自国領土内での核戦争下での機動戦を想定しており、戦車部隊はその骨幹戦闘力として期待されていた[6]
アメリカ陸軍
大戦期

アメリカ陸軍では、1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻において装甲部隊の有用性が示されたことを踏まえて、同年7月より機甲師団および機械化師団の編成に着手した[7]。当初の編制では、機甲連隊(戦車連隊)3個と機甲歩兵連隊(機械化歩兵連隊)1個を基幹としており、戦車大隊と機甲歩兵大隊の数を比較すると9対2という、極めて戦車偏重の編制をとっていた[7]。その後、演習を通じて歩兵部隊の不足が認識されたことから、1941年型の編制では機甲歩兵大隊が1個追加されたものの、それでも9対3で戦車偏重であることに変わりはなかった[7]

1942年型の編制では、戦闘コマンド(英語版)(戦闘団司令部)という画期的な編制が導入された[7]。これは師団内において特定の所属部隊を持たない司令部組織であり、A・Bの2個が設置されて、機甲連隊や機甲歩兵連隊、機甲野戦砲兵大隊などの各部隊を適宜に所属させるという柔軟なシステムであった[7]。なお師団の基幹となる戦車部隊は2個連隊、機甲歩兵部隊は1個連隊で、大隊数としては6対3と、均衡化が進んだとはいっても依然として戦車兵力に偏った編制となっていた[7]

1943年型の編制では、機甲連隊・機甲歩兵連隊の本部を廃止する一方、戦闘コマンドをA・B・R(Reserve)の3個に増備した[7]。また戦車大隊が3個に減らされたことで、戦車大隊と機甲歩兵大隊が同数になり、バランスのとれた比率となった[7]。機甲野戦砲兵大隊・機甲工兵中隊も各3個を有することから、戦車・機甲歩兵・砲兵大隊および機甲工兵中隊を各1個ずつ、3つのコンバット・コマンドの隷下に配属することで、基本的に同一編成の戦闘団を3個編成できるようになった[7]。一方、固定的な編制ではないことから、必要に応じて特定の戦闘コマンドに戦車兵力を集中させて突破を図るなど、柔軟に運用を行うことができた[7]。また3つの戦闘コマンドのうち、RはA・Bよりも司令部要員数が少なく、その名の通りに予備兵力を担うことを想定した編成ではあったが、ドイツ軍の反撃能力が低下した大戦末期には、3つのコンバット・コマンドが全て前線に投入されるようになっており、例えばバルジの戦いにおいてバストーニュの包囲網を最初に突破したのは第4機甲師団(英語版)のコンバット・コマンドRであった[7]。ただし1943年型の編制では戦車兵力が減少したことから、一部の師団は1942年型の編制のままで残されて、突破作戦の先鋒として用いられた[7]
編制 (1942・43年型機甲師団)

1942年型機甲師団


戦闘コマンドA(CCA)

戦闘コマンドB(CCB)

2個
戦車連隊


1個軽戦車大隊

2個中戦車大隊


機甲歩兵連隊


3個機甲歩兵大隊


機甲野戦砲兵大隊


3個機甲野戦砲兵中隊(M7自走砲×6両)


機甲偵察大隊


3個機甲偵察中隊(M8装甲車×27両)

軽戦車中隊(M5軽戦車×15両)

突撃砲中隊(M8自走砲×8両)


機甲工兵大隊

機甲通信中隊

師団団列


機甲補給大隊

機甲兵器整備大隊

機甲衛生大隊


1943年型機甲師団


戦闘コマンドA(CCA)

戦闘コマンドB(CCB)

戦闘コマンドR(CCR)

3個機甲大隊

3個機甲歩兵大隊

師団砲兵司令部


3個機甲野戦砲兵大隊


機械化騎兵大隊

機甲工兵大隊

機甲通信中隊

師団団列


機甲補給大隊

機甲兵器整備大隊

機甲衛生大隊

冷戦期

大戦後、アメリカ陸軍の歩兵師団は戦術核兵器への適応などを目的にペントミック・コンセプトに基づく大規模な改編を試みたが、機甲師団への影響は小規模なものであった[8]。一方、これにかわる編制として1962年より導入されたROAD(Reorganization Objective Army Division)コンセプトは、機甲師団・機械化師団の改編を主眼としていた[8][9]

ROAD師団は、1942年型機甲師団以来の戦闘コマンドの理論を発展させたbuilding blockアプローチを全面的に導入しており、師団内に3つの旅団司令部を常設し、プールされている戦闘機動大隊を適宜に指揮下に入れることで諸兵科連合タスクフォースを構成できるようになっていた[8]。戦闘機動大隊には機械化歩兵大隊と戦車大隊があったが、師団の種類に応じて比率が異なっており、歩兵師団は8対2、機械化師団は7対3、機甲師団は5対6の比率とされた[9][10]

その後、ベトナムからの撤退を受けた欧州回帰を背景として、1970年代中盤からは第四次中東戦争の戦訓を踏まえたソ連機甲部隊への対抗策の検討が活発化した[11][12]。これによって開発された新しいドクトリンがエアランド・バトルだったが、これと並行し、そのために最適化した重師団編制として開発されたのが86師団(Division 86)コンセプトであった[13][注 2]。基本的にはROAD師団から大きな変更はないが、師団の航空戦力を統括するために4つ目の旅団司令部が追加されたほか、MLRSも追加された[13]
編制 (86機甲師団)

機甲師団(18,954名)
[15]

3個旅団司令部(133名)

4個機械化歩兵大隊(876名)

6個戦車大隊(522名: 主力戦車58両、騎兵戦闘車7両など)

師団砲兵(3,236名: 目標捕捉中隊+M109 155mm自走榴弾砲大隊+MLRS

航空旅団(1,749名: 戦闘支援航空大隊、2個攻撃ヘリ大隊など)

師団支援コマンド(3個前方支援大隊、整備大隊など)

防空大隊

工兵大隊

通信大隊

軍事情報大隊

化学防護中隊

憲兵中隊


ソビエト連邦・ロシア連邦
労農赤軍

独ソ戦前の赤軍では、戦車師団2個と機械化師団1個を基幹とする機械化軍団(механизированные корпуса)を編成しており、戦車師団は戦車連隊2個と自動車化歩兵連隊1個、自動車化砲兵連隊1個を基幹としていた[16]


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