機動戦士ガンダム
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また、安彦が「エンターテインメントを考えた場合、タツノコから来た人のほうがいいのではないか」と考えたため、美術に中村が、メカニックデザインには大河原が参加することが決まった[注 6][12][20]

声優のキャスティングは音響監督の松浦典良による。後年の富野のインタビューによれば、アムロ役の古谷徹、シャア役の池田秀一からA、B、Cといった端役に至るまでほぼ全員が「はまり役」であり、演技指導もほとんどしなかったという[22]
反響・評価
初回放映時の評価と後の社会現象

初回放送時の視聴率は名古屋地区で平均9.1%、関東地区で5.3%[23]と振るわなかった。

視聴率低迷のため、スポンサーの要望によって量産型の他にいわゆる「やられメカ」を毎回出すことになり、試作機が投入されたという設定で グフドムなどの新MSやモビルアーマー (MA) が登場したが視聴率は好転しなかった[10][注 7]

視聴率低迷は関連商品の不振につながり[25]、スポンサーから「シャアという陰気なキャラクターがいけない」と指摘され作中でシャアを左遷したが、今度は「シャアが何で出ないのだ」という抗議の手紙が殺到した[26]。こうした手紙は中高生のファンからであり、サンライズ側の当初の狙い通り、本作には中学生以上のファンがついていた[25]名古屋テレビの関岡渉によると左遷どころか殺す予定だったのをスタッフを説得して取りやめになったとある[27]

その後もテコ入れが試みられたが(後述)視聴率も売り上げも挽回できず、全52話の予定が全43話に短縮される形の打ち切りとなった[注 8]。シリーズ途中で安彦良和が病気で現場を離れるなど、製作スタッフの疲弊も激しかった。

ところが打ち切りが決まった直後から人気が上昇。最終回でアムロは死ぬ予定だったが、関岡が人気の盛り上がりから再放送や続編制作が期待できるため反対して取りやめになった[27]。また、放送当時からアニメ雑誌がたびたび熱意ある特集記事を組むなど、中高生、特に女子を中心に口コミで徐々に評判が高まった[注 9]。放送回数は打ち切り決定当時の43話のままで終了したが、本放送終了後もアニメファンによる再放送要請嘆願署名が行われるなど熱意が衰えず、これらを受けてクローバーは再放送を決定した[29]。こうして再放送、再々放送が重ねられ、世間一般へ本作が浸透していった。再放送では平均視聴率も10%を超え、1981年における関東地区で17.9%、1982年における名古屋地区で25.7%(最高視聴率29.1%)を記録した。

放映終了半年後にバンダイから発売されたMSのプラモデルが爆発的な売れ行きを見せ、ガンプラと呼ばれた(後述)。後の劇場版公開もあわせ、社会現象ともいえるブームを巻き起こした。その後も本作と世界観や設定、歴史などを踏襲、あるいは共有する小説漫画が数多く制作された、メディアミックスの先駆けともいえる作品である。

一方で、作中におけるMSの描写やニュータイプの存在に対して高千穂遙がSF作家としてSF考証の観点から批評する意見を述べ[30]「ガンダムSF論争」を巻き起こした[注 10]
アニメ史上の評価と後続作品への影響

本作のヒットは新たなアニメブームをもたらし、これに影響されたアニメも玉石混淆で無数に製作されることになる。特にロボットアニメは本作同様に、登場人物や世界観の描写に力を注ぐことで高年齢層も意識した作品作りがなされるようになり、数多くの作品を生み出した[注 11]

2010年に第4回声優アワードシナジー賞を受賞した。
商業的事情

サンライズは前述のように本作を中学生以上向けに作っていたが、スポンサーが集まらない懸念があったため、創通エージェンシーはスポンサーには低年齢向けと説明していた[27]。こうして各社とも前2作『無敵超人ザンボット3』、『無敵鋼人ダイターン3』と同じく、小学生以下向けの商品を展開したことからミスマッチが起き[29]、せっかくの中高生ファンを取り込むことが出来ず、関連商品は不振に陥った。そこでクローバーの要請により、1979年9月にGアーマーが登場し、同月にはGアーマーとガンダムをセットにした「ガンダムDX合体セット」が発売されたが、売上増には結び付かなかった[29]

企画当初、アニメ制作陣は、この作品を画期的な作品とすべく、数々の斬新な案を用意していた。その中には「主役のガンダムのカラーリングは白一色」という、これまでの子供向けアニメの常識を打ち破る設定もあった。しかしスポンサー筋から「TVアニメのスポンサーを引き受ける目的はTV画面に登場するキャラクターの商品化なのに、主役のロボットが白一色では売れるわけがない。子供のオモチャは赤青黄色の三原色を使うのが常識。ガンダムも赤青黄色で塗れ。」との意見があった。スポンサーの意思(というより事実上の命令)を無視出来なかったため、仕方なく胴体部分のみ申し訳程度に赤青黄色の三原色を彩色した[注 12]。尚、企画段階でガンダムが白い事に反対していたクローバーは、ガンダムにある白い箇所の大部分を銀色に独自解釈し、自社の玩具では色を変えて販売していた。

名古屋テレビの関岡の証言では、局の立場としては番組を打ち切り対象にする程ではなかったが、玩具業界のサイクルでは年末年始の次は3月の春休みに需要が見込めるため、2月に新番組を投入すれば、ちょうどその時期に玩具が売れて経営危機を乗り切れるのではないかと判断され、乗り換え需要を喚起するために1月一杯で打ち切りが決定したという見方が有力である[31]。サンライズの飯塚正夫は「オモチャが売れるクリスマスとお正月のお年玉のある1月までは何とか放送してもらえる事になった」と述べている[13]。ところが年末商戦で「DX合体セット」が好調な売れ行きを示し、クローバーは慌てて延長をサンライズに打診したものの実現しなかった[32]

前述のように本放送時に関連商品を展開した会社は軒並み失敗したが、アニメ雑誌『アニメック』を発行し、アニメショップ『アニメック』を経営していたラポートだけはアニメファンの盛り上がりをいち早く掴んでいた。同社はアニメファン向けの商品を本放映時、既に展開してファンを盛り上げていった。

一方で玩具の売上不振を補うべく、サンライズはクローバーにプラモデルの商品化を打診していたが、「売れないキャラクターの商品を増やしてもしょうがない」と拒否された。そこでサンライズはクローバーの了解を得て他社にプラモの商品化を呼びかけた[10]。ところが本作のもう一つの版権元であり、版権窓口でもある創通エージェンシーはクローバーの玩具販売に悪影響が出る事を懸念し、アオシマにプラモ化を打診した。しかし、打ち切りが決まっていたため、次回作で模型化を行なうこととなり、ガンダムのプラモ化は断られた。そのような中でも創通は、『宇宙戦艦ヤマト』の模型を販売していたバンダイ模型に打診、長い交渉の末、1979年の暮れに創通が折れる形でバンダイ模型が商品化権を取得した[33]。こうして放映終了半年後に発売されたプラモデルが爆発的な売れ行きを見せ、ガンダム人気を広げる一助となった。大変な人気を得た事でガンダムのプラモはガンプラと呼ばれるようになり、更には「モビルスーツバリエーション」と呼ばれる派生シリーズを産み、それらにおける種々の設定はアニメ雑誌において生み出された設定と合わせてガンダムの世界観をより深く掘り下げるものとなった。1982年にはプラモデル市場は過去最高の市場規模になった[34]

こうした経緯のため、「ガンダムブームはラポートが火をつけ、バンダイが築いた」と評されている[35]。劇場版公開の頃になると各社とも本作のファン層に合わせた商品展開をしていたが、ファンの低年齢化によってアニメファン向け以外の商品も売れるようになっていった[29]。また、ガンプラや各種トイも今尚、初代ガンダムやザクの新型アイテムが発売される等、根強い人気を保っている。近年ではザクとうふ等、ファンシーな商品も発売され、ファン層を拡大させている。
あらすじ

舞台は、スペースコロニーへの宇宙移民が始まって半世紀余りが過ぎた未来世界・宇宙世紀0079年。


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