橘奈良麻呂の乱
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^ 塩焼王は計画参加の証拠が見つからず免罪、安宿王は「黄文王に誘われただけ」と主張し、流罪となった。道祖王は自身の廃太子以前に計画に参画する動機がないのに対して、橘奈良麻呂が一貫して黄文王擁立に拘っていることから、黄文王は初めから奈良麻呂と共に計画の中心にいたとする指摘もある[7]
^ 後に奈良麻呂の孫の嘉智子が皇后になった(檀林皇后)ため、記録から消されたといわれる。
^ 7月27日に孝謙天皇から塩焼王に対して今回の陰謀に加わってはいないものの、実兄道祖王の罪の連座によって遠流相当であること、しかし亡くなった父の新田部親王の忠節を思い罪には問わない、とする詔が出されている。
^ 仲麻呂と同じく「光明皇太后の甥」であった永手は天平勝宝8歳5月に聖武上皇の崩御を受けて内臣(納言待遇)に任じられていたが、これに不満を持つ藤原仲麻呂によって大炊王立太子の直後の翌年5月に中納言昇進を口実に内臣を解任され、永手から内臣の権限を取り上げた仲麻呂は紫微内相を名乗ったとする説がある[9]
^ ただし赴任せず。抗議として難波の別荘に籠って政情が変わるまで8年間過ごした。仲麻呂失脚時に右大臣として復権。
^ 仲麻呂失脚後、復権。
^ 仲麻呂失脚後、復権。
^ 光仁朝にて復権

出典^ 森田悌「越中守時代の大伴家持」『金沢大学教育学部教育学科教育研究』25号、1989年
^ 中村順昭『橘諸兄』吉川弘文館〈人物叢書〉2019年、P219.
^ 木本好信「橘諸兄と奈良麻呂の変」『奈良時代の人びとと政争』おうふう、2013年、P143-146.
^ 木本、2021年、25-38.
^ 上野正裕「大伴古麻呂と奈良時代政治史の展開」『古代文化』第67巻第2号、2015年/改題所収:「大伴古麻呂と〈選ばれた四位官人〉」上野『日本古代王権と貴族社会』八木書店、2023年。2023年、P152-153.
^ 『続日本紀』天平宝字元年7月4日条に記載の小野東人・安宿王の自白より。
^ 木本、2021年、P39-41.
^ 吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、1994年 『律令貴族成立史の研究』塙書房、2006年 ISBN 978-4-8273-1201-0 所収)
^ 上野正裕「奈良時代の内臣と藤原永手」『古代文化』第70巻第3号、2018年、P310-324./改題所収:上野「藤原永手と内臣」『日本古代王権と貴族社会』八木書店、2023年、P169-199.

参考文献

北山茂夫「天平末葉における橘奈良麻呂の変」『立命館法学』2号、1952年。

中川幸広「橘奈良麻呂の変」『古代史を彩る万葉の人々』笠間書院、1975年。

菊池克美「橘奈良麻呂の変」『別冊歴史読本』23巻6号、1998年。

木本好信「橘奈良麻呂の変」『奈良時代の人びとと政争』おうふう、2003年

木本好信「橘諸兄と橘奈良麻呂の変」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年

木本好信「黄文王と橘奈良麻呂」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年(原論文:『史聚』53号、2020年)

『続日本紀』3 新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年

宇治谷孟訳『続日本紀』全現代語訳(中)、講談社学術文庫、1992年

青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中央公論社、1965年

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