橘奈良麻呂の乱
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安宿王は佐渡島大伴古慈悲藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流され(両者ともその後赦免)、塩焼王は直接関与した証拠がなかったために不問とされ[注釈 4]、後日臣籍降下(「氷上眞人塩焼」と改名)している。反乱計画に直接関与していなかったものの全成は捕縛され奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害した。他にもこの事件に連座して流罪徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。また、右大臣・藤原豊成が息子乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。また、中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある[8][注釈 5]。豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であり、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々であった。

一連の処分が終わった8月18日9月6日)に孝謙天皇は元号を「天平宝字」と改元して体制の立て直しを図ることになった。
その後

仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。758年天平宝字2年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。そして、760年(天平宝字4年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。だが、その没落も早く、孝謙上皇の寵愛は弓削道鏡に移り、764年(天平宝字8年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ(藤原仲麻呂の乱)。
乱で処罰された人物

家系氏名官位など処罰内容
橘氏橘奈良麻呂正四位下参議獄死
皇族安宿王正四位下・讃岐守妻子とともに佐渡国へ流罪
皇族黄文王従四位上散位頭久奈多夫礼と改名の上、獄死
皇族道祖王皇太子麻度比と改名の上、獄死
藤原南家藤原豊成正二位右大臣大宰員外帥に左遷[注釈 6]
藤原南家藤原乙縄正六位上日向員外掾に左遷[注釈 7]
多治比氏多治比広足従三位中納言中納言を解任
多治比氏多治比国人従四位下・遠江守伊豆国へ流罪
多治比氏多治比犢養従五位上獄死
多治比氏多治比礼麻呂獄死?
多治比氏多治比鷹主獄死?
大伴氏大伴古麻呂正四位下・左大弁獄死
大伴氏大伴古慈斐従四位上・土佐守任地の土佐国で解官。そのまま土佐に流罪[注釈 8]
大伴氏大伴駿河麻呂従五位下流罪?[注釈 9]
大伴氏大伴池主式部少丞獄死?
大伴氏大伴兄人獄死?
佐伯氏佐伯全成従五位上陸奥守自害
佐伯氏佐伯大成従五位下・信濃守信濃国へ流罪
賀茂氏賀茂角足正五位上遠江守乃呂志と改名の上、獄死
小野氏小野東人従五位上・前備前守獄死
その他答本忠節外従五位下獄死?
その他山田三井比売嶋従五位下(故人)山田三井宿禰から山田史へ改姓

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 仲麻呂側も奈良麻呂側の動きを警戒しており、6月16日には大伴古麻呂が鎮守将軍兼陸奥按察使を兼帯して陸奥国への赴任を命じられている。ただし、この人事には仲麻呂が計画していた蝦夷征討の実現のためになおも古麻呂を利用しようとした思惑もあったとする[5]
^ 塩焼王は計画参加の証拠が見つからず免罪、安宿王は「黄文王に誘われただけ」と主張し、流罪となった。道祖王は自身の廃太子以前に計画に参画する動機がないのに対して、橘奈良麻呂が一貫して黄文王擁立に拘っていることから、黄文王は初めから奈良麻呂と共に計画の中心にいたとする指摘もある[7]
^ 後に奈良麻呂の孫の嘉智子が皇后になった(檀林皇后)ため、記録から消されたといわれる。
^ 7月27日に孝謙天皇から塩焼王に対して今回の陰謀に加わってはいないものの、実兄道祖王の罪の連座によって遠流相当であること、しかし亡くなった父の新田部親王の忠節を思い罪には問わない、とする詔が出されている。
^ 仲麻呂と同じく「光明皇太后の甥」であった永手は天平勝宝8歳5月に聖武上皇の崩御を受けて内臣(納言待遇)に任じられていたが、これに不満を持つ藤原仲麻呂によって大炊王立太子の直後の翌年5月に中納言昇進を口実に内臣を解任され、永手から内臣の権限を取り上げた仲麻呂は紫微内相を名乗ったとする説がある[9]
^ ただし赴任せず。抗議として難波の別荘に籠って政情が変わるまで8年間過ごした。仲麻呂失脚時に右大臣として復権。
^ 仲麻呂失脚後、復権。
^ 仲麻呂失脚後、復権。
^ 光仁朝にて復権

出典^ 森田悌「越中守時代の大伴家持」『金沢大学教育学部教育学科教育研究』25号、1989年
^ 中村順昭『橘諸兄』吉川弘文館〈人物叢書〉2019年、P219.
^ 木本好信「橘諸兄と奈良麻呂の変」『奈良時代の人びとと政争』おうふう、2013年、P143-146.
^ 木本、2021年、25-38.
^ 上野正裕「大伴古麻呂と奈良時代政治史の展開」『古代文化』第67巻第2号、2015年/改題所収:「大伴古麻呂と〈選ばれた四位官人〉」上野『日本古代王権と貴族社会』八木書店、2023年。2023年、P152-153.
^ 『続日本紀』天平宝字元年7月4日条に記載の小野東人・安宿王の自白より。
^ 木本、2021年、P39-41.
^ 吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、1994年 『律令貴族成立史の研究』塙書房、2006年 ISBN 978-4-8273-1201-0 所収)
^ 上野正裕「奈良時代の内臣と藤原永手」『古代文化』第70巻第3号、2018年、P310-324./改題所収:上野「藤原永手と内臣」『日本古代王権と貴族社会』八木書店、2023年、P169-199.

参考文献

北山茂夫「天平末葉における橘奈良麻呂の変」『立命館法学』2号、1952年。

中川幸広「橘奈良麻呂の変」『古代史を彩る万葉の人々』笠間書院、1975年。

菊池克美「橘奈良麻呂の変」『別冊歴史読本』23巻6号、1998年。

木本好信「橘奈良麻呂の変」『奈良時代の人びとと政争』おうふう、2003年

木本好信「橘諸兄と橘奈良麻呂の変」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年

木本好信「黄文王と橘奈良麻呂」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年(原論文:『史聚』53号、2020年)

『続日本紀』3 新日本古典文学大系14 岩波書店、1992年

宇治谷孟訳『続日本紀』全現代語訳(中)、講談社学術文庫、1992年

青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中央公論社、1965年


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