(和歌山県海南市、大阪府大阪市東住吉区、東京都世田谷区)
父・徳松(教育者、実業家)
父・徳松(1893年(明治26年)2月生[16])は和歌山県の海南出身で、家は極貧だったが頭が良かったので地元の篤志家が金を出してくれて、中学を二年飛び級して大学に行った[3]。中学まで二里の道を毎日歩いた[3]。学校までの中間地点にいつも徳松が野糞をする松の木があって、地元の人はそこを“徳松の松”と呼んでいた[3]。橋爪が物心ついた頃は徳松は大阪電気商会の重役だったが、昔は旧制の天中(天王寺中学)で化学の先生をしていた[3]。そのうち何を思ったか教師をやめて東北大学の法科に入り直した[3]。そして満鉄関係の仕事で中国に渡ったりした[3]。汚職で一遍刑務所に入ったことがあった[3]。母は「お世話になってた人を庇(かば)って服役した」と述べている[3]。1年半後に出てきて、新しい会社を紹介してもらってそこの重役になった[3]。変わった人だった[3]。橋爪によれば「小柄ですし、男前でもなかったけど、ちょっと色気のある男だった。よく歌舞伎に連れてってくれた。いつも苦虫噛みぶしたような顔していた」という[4]。橋爪によると「父は、兄を厳しく育てたが僕には優しかった」とのこと[5]。略歴 - 1916年に東京高等工業を卒業[16]。横浜舎密化学研究所に入り朝鮮電気興業に転じ大阪府立天王寺中学・大阪今宮工業学校教諭となった後、1927年に東北帝大法文学部を卒業後、大阪織物に入社[16]。1938年に専務[16]。1941年には大阪電気商会大阪暖房商会取締役支配人に就任[16]。